【~連載~静岡の歴史を学ぼう264】William Adams Part1. ~~The world history around 1600~~ウィリアム・アダムス パート1~~1600年頃の世界史~~
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徳川家康公が駿府に移られたのは1607年7月。大御所政治を展開する中、多くの外国人が家康公に会うためにやってきました。駿府は繁栄を誇る国際都市でした。家康公の外交を支えたのは、「青い目のサムライ」ウィリアム・アダムスでした。
William Adams Part1.
~~The world history around 1600~~
ウィリアム・アダムス パート1 ~~1600年頃の世界史~~
William Adams was an English pilot, who voyaged and reached Japan in the year 1600.
ウィリアム・アダムスはイギリス人の船乗りで、1600年に航海して日本にたどり着きました。
He became a diplomatic advisor of Tokugawa Ieyasu and played an important role in the Edo feudal government.
彼は徳川家康の外交顧問となり、江戸幕府内で重要な役割を果たしました。
Before explaining about William Adams, the historical background around 1600 should be explained to understand why he arrived in Japan.
ウィリアム・アダムスについて説明する前に、1600年頃の歴史的背景について説明したほうが良いでしょう。そうすればなぜ彼が日本にやって来たのか理解できます。
The 15th century to the middle of the 17th century was the Age of Discovery in world history.
15世紀から17世紀半ばにかけて、世界史では大航海時代でした。
Around this time, Spain and Portugal aggressively developed the sea route around Cape of Good Hope because the Ottoman Empire expanded its power to the east of the Mediterranean Sea.
この頃、スペインとポルトガルが喜望峰を回る新しい海路を積極的に開拓しました。
オスマン帝国が地中海の東まで勢力を伸ばしたからです。
The Ottoman Empire imposed high tariffs on spice trade in the Mediterranean Sea, therefore Europeans had to create another sea route in search for spice in Asia.
オスマン帝国は地中海における香辛料貿易に高い関税を掛けました。ですからヨーロッパ人はアジアのスパイスを求めて別の航路を作り出さないとなりませんでした。
Spain and Portugal took an initiative for creating a new sea route for Asian countries.
スペインとポルトガルはアジア諸国への新しい航路を作り出すことにおいて先手を打ちました。
On the other hand, Holland and England completely fell behind regarding trading in Asia.
一方、オランダとイングランドはアジアの交易において、完璧に遅れをとりました。
Dutch merchants who collaborated with English explorers made a fleet to find a new sea route for voyaging to Asia.
イギリス人の探検家と協力したオランダ人商人はアジア行きの航路を見つけるため、船団を結成しました。
The five ships started at Rotterdam in 1598, and they sailed to the west by crossing the Atlantic.
5隻の船は1598年にロッテルダムを出港し、大西洋を越え、西に航海しました。
Furthermore, after reaching South America, the ships were voyaging the Pacific Ocean to arrive in Asia.
更に南アメリカに到着後、船はアジアへ向け、太平洋を航行しました。
The grueling voyage worn down the sailors' vitality. In the long run, only 24 sailors survived among the 500 original members.
過酷な航海で船員たちの生気はすっかり無くなりました。結局は、元々500人いた船員たちの内、たったの24人しか生き残ることは出来ませんでした。
Only one ship called ‘the Liefde’ could sail and finally reach Usuki, the present-day Oita prefecture in April 1600.
たった一隻残った「リーフデ号」だけが航行し、ようやく臼杵(うすき・現在の大分県)に到着することができました。1600年4月の事でした。
(参考資料)
「三浦按針 その生涯と時代」 森 良和著 東京堂出版
「ウィリアム・アダムス ―家康に愛された男・三浦按針」 フレデリック・クレインス著 ちくま新書
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