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【~連載~静岡の歴史を学ぼう301】Sumpu Metsuke Part 1. 駿府目付 パート1

少し(いやだいぶ)細かい駿府のお話。駿府城は城主のいないお城だったため、幕府から監査役の目付が毎年派遣されました。現代社会の企業や政府における会計監査役と同じように、目付も独立した立場で監査を任されていました。

江戸幕府の統治システムは高度なものだったと考えられます。

Sumpu Metsuke Part 1.

駿府目付 パート1

Metsuke were the official inspectors of the Edo feudal government.

目付は江戸幕府の公式の監査役でした。

Sumpu Castle was under the leadership of the Tokugawa family after Lord Ieyasu’s passing in 1616.

駿府城は家康公が1616年に崩御された後、徳川家の指導者の下にありました。


駿府城
 巽櫓 そして 東御門

However, the third lord, Tokugawa Tadanaga piled up problematic behaviors, so he was ordered to commit an honorable suicide (seppuku) by the third Shogun, Tokugawa Iemitsu.

しかし3代目の城主の徳川忠長は問題行動を重ね、そのため3代将軍徳川家光により切腹を言い渡されました。

As a result, Sumpu Castle became an ownerless castle, so the city of Sumpu was directly controlled by the Edo feudal government.

結果、駿府城は主のいない城となり、駿府という都市は江戸幕府に直接統治されました。

The government used to annually send 'Sumpu Metsuke', or an inspector for Sumpu, to check on the governance in Sumpu.

江戸幕府は毎年駿府の統治を検査するため「駿府目付」を送りました。

Historical documents states that it took three months for the inspectors to examine the Sumpu Castle and many locations in Sumpu.

歴史書によれば、目付が駿府城と駿府の各地を検分するのに3か月かかりました。

Inspectors mostly paid a visit at temples and shrines because political and administrative documents were stored there.

政治的行政的文書が保管されていたため、目付は主に寺や神社を回りました。

以下、目付が検分の為、巡った寺社(実際にはもっとあります)
その1 宝台院

その2 臨済寺


その3(静岡)浅間神社


その4 久能山東照宮

For about 200 years after Tadanaga’s death until the end of the Edo period, inspectors must have conducted around two hundred inspections in Sumpu.

忠長の死から江戸幕府の終わりまでおよそ200年、目付達は駿府で200回ほど監査を行ったはずです。

I think each inspector left his record to report to the Shogun.

それぞれの目付は将軍に報告するために記録を残したと思われます。

(to be continued ・・・・・)続く

参考資料:文政期における駿府目付の職務実態 -----旗本仁賀保誠教の動向を中心に

藤井明広著 立正大学文学部論叢 第142号 

タイトル上の写真 駿府城坤櫓 提供:静岡市


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