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【短編小説】真夜中のサクラ
心地良い風がカーテンを揺らす春の夜。
1DKの古アパートで、ポロン、ポロンと優しくつま弾かれるギターの音に、僕は目を覚ました。
「サクラ、また眠れないの?」
「窓、閉め忘れちゃったから、桜の精に起こされたの」
サクラはそう言って笑った。
なるほど僕らが眠る枕元には、風で運ばれた桜の花びらがいくつも落ちている。アパートの庭には大きな桜の木があって、満開の桜が柔らかな月の光に照らされていた。
「ほら、リンも起こされたんだもんね」
自分の名前がわかるのか、リンは「ニャーン」と返事をしてサクラの膝にすり寄った。リンは子猫の時、サクラに拾われた白い猫。濡れ光る目の片方は青、もう片方は緑のオッドアイだ。
サクラとリンと、この僕の部屋で一緒に暮らし始めてからもう半年。ペット禁止のこの部屋で、リンと暮らすのは不安だったけれど、いざ暮らしてみると不思議とその存在を誰にも知られることはなかった。
ストリートミュージシャンだったサクラは、眠れないとこうやって、よく真夜中にギターをつま弾くのだ。
「ごめんね。タクミくんまで起こしちゃって」
「かまわないよ。僕はサクラのギター好きだから。ねぇ、眠れないならなにか弾いてよ」
僕はリンを抱くと、ベッドのサクラの足下に身を寄せた。サクラが奏でる優しい旋律に僕は次第に心地よい眠りへと落ちていった。
*
サクラと初めて会ったのは、夕暮れ時の駅前広場。
サクラがギターを奏で歌っていた時のこと。雷鳴と共に始まった突然のゲリラ豪雨に、急ぎ足の人の波。すぐそこのビル陰まで機材を運ぼうと奮闘しているサクラを気に留める人はなく、見かねた僕が手伝ったのが最初だった。
「ありがとう。助かったよ。ほんとにありがとう」
雨雫の落ちる前髪の間から覗く漆黒の瞳の美しさに僕は、一瞬吸い込まれそうになった。思えばこの瞬間から、僕の心にはサクラがすっかり入り込んでしまったのかもしれない。
「お兄さん、学生さん?お勤めの人?」
「僕?僕は、今大学三年生」
「そうなんだ。いつもここで歌ってるんだけど。こんな風に助けてくれる人いなかったからちょっとびっくりしちゃった」
そう言ってサクラは人懐っこい笑顔を僕に見せた。
「そうか。ところでさっき君が歌ってた曲。あれ、僕の大好きな曲」
「そうなの?偶然だね」
「うん。あの曲、いつも聴いてるよ」
「私もよく聴いてる。一緒だね」
雨宿りの一時間、二人は意気投合し、住むところがないというサクラに
「だったら見つかるまでうちに来れば?」
信じられないことだが、気が付くと僕はそう言っていたのだ。
考えてみれば僕は、うちに来る前のサクラのことを何も知らない。どこにいたのか。なにをしていたのか。どんな人生を送ってきたのか。
*
その知らせが突然僕の元に届いたのは、初夏の夜のこと。
バイト先のイタリアンバルのフロアに立つ僕を、店長が呼んだ。
「タクミくん、電話入ってるよ。どうも急用らしい。君のアパートの大家さんから」
「すみません。すぐ済ませますからちょっと抜けます。すみません」
そう言って僕は、子機を手に店の裏口を出た。
「え?なに?よく聞こえなかったんでもう一度お願いします」
会社帰りの人たちで賑わう表通りの騒音がここまで聞こえてきて、電話の向こうの声がよく聞き取れない。
「だからね!いいから早く帰って来て!大変だから!すぐ帰って来て!」
「大家さん、なにが大変?いったいどうしたんですか?」
ようやく聞き取れた大家の話に、僕の体中の血が一瞬にして凍り付いた。
そんなことまさか。嘘でしょ。なにかの間違いだ。
僕はコックシャツと黒いソムリエエプロンを身につけたまま、裏に停めておいた自転車に飛び乗った。
その後どうやってアパートまで辿り着いたのか覚えていない。
アパートの前にはパトカーと人だかり。僕は自転車を乗り捨てると、その人混みを必死にかき分けてかき分けて。そして僕が最初に見たものは、駐車場のアスファルトに白いチョークで書かれた人型だった。
*
「いつからですか?彼女と一緒に暮らし始めたのは」
「……」
「彼女、最近変わったこととかなかったかな?」
「……」
「辛いだろうけど、話してもらえないか」
「……」
「ねぇ、君。聞いてる?」
「……」
「あのね。別に君を疑ってるわけじゃないんだけどね。一応事情を聞かないとならないわけさ、これが俺の仕事だから」
僕は開け放たれたドアの中、幾人もの警官が出入りする僕の部屋で、私服の刑事にあれこれと事情を聞かれていた。この事態に驚いたリンは、どこかの物陰で気配を消しているらしい。
「おい、君。なにか思い当たること、ないかな」
「……」
「君たち一緒に暮らしてたんだろう?」
「……サクラに……サクラに会わせてください。そんなことよりも、まずサクラに会わせてください」
「いや、それよりもまず事情を聞くことが先だから」
そんな刑事の言葉に突然スイッチが入ったように、僕は彼に激しく掴みかかった。
「サクラはどこにいるんだよ!会わせろってば!会わせろよ!」
「やめろ!おい!やめるんだ!」
そこにいた何人もの警官に押さえつけられ僕は、間もなく身動きが取れなくなった。
*
ドアの扉には「霊安室」と書いてある。
見知らぬ婦人警官が、俯き加減でドアを開け僕に入るように促した。そこには診察台のようなベッドがあり、ふわりと掛けられた白い布は柔らかい女性のシルエットを描き出している。僕は引き寄せられるように近づくと右のはしからそっと布をめくった。
「サクラ……なんで……サクラ……どうして……サクラ……サクラ……」
膝をつき号泣する僕の肩に、婦人警官がそっと手を置いた。
「ご遺体は明日検死になります。身元は今行方不明者リストなどから探しているところです……」
なぜだろう。なぜなんだろう。思い当たるふしは僕には何一つないのに。
その夜、サクラは僕のアパートの屋上から夜の闇に飛びこんだ。僕にその理由も、別れさえも一切告げずに。
*
その日から、僕のなにもかもが止まってしまった。
僕は、来る日も来る日もアパートの部屋に閉じこもった。今日も何度も携帯が鳴る。友人なのか、同僚なのか店長なのか、もうそれすら確認する気力もない。そんなことはもうどうでもいいのだ。
「ニャーン」
リンが僕の足下にすり寄った。今はリンだけが絶望の闇を彷徨う僕の唯一の相棒。
何日も何日も眠れない夜が続き、とうとう精も根も尽き果てた僕は、サクラが持っていた睡眠薬を口に入れた。とにかく今は一時でもこの現実から逃げ去りたい。忘れたい。そうしなければもう、ここで僕の人生は本当に終ってしまう。なんとかしなければ……。そんな防衛本能が働いたのだろう。
*
ずいぶんと長く眠った気がした。
僕は暗闇の中、ポロン、ポロンと平和な調べを耳にして目を開けた。ポロン、ポロン。その音色は、まだ朦朧としている僕の意識の中へと流れ込んでくる。それはいつも通りのしあわせな音。その音色に身を委ね、しばらく微睡んでいた僕は、はっと我に返り飛び起きた。
「サクラ?サクラなのか?」
思わずそう呼びかけてはみたが、返事など返ってくるはずもない。
ポロン、ポロン。
でも、これってサクラのギターの音?だよね。
目を懲らすと窓辺には、ぼんやりとした人影が。月の光に照らされて、逆光で顔は見えないけれど、ギターを抱え座るそのシルエットは紛れもなくサクラだ。
「サクラ……だよね……?」
その人影は立ち上がり、僕の隣に腰を下ろしニッコリと微笑んだ。
サクラだった。
「サクラ、帰ってきてくれたんだね……僕のところに帰ってきてくれたんだね」
「そうだよ」
「そうか……よかった……本当によかった……サクラ、会いたかった」
僕は、サクラにすがりついて泣いた。嬉しくて泣いた。
サクラがいなくなり、生きる気力を失った僕を心配して、サクラは再び僕の前に現れてくれたのだ。それだけ僕を愛してくれていたのだ。生きていようが死んでいようがそんなことは関係ない。僕等は愛し合っているのだから。
サクラはそれから毎晩、僕の前にその姿を現した。サクラとリンと僕と、かけがえのないしあわせな時間。僕にとってはこれ以上のしあわせはなかった。
*
ドンドンドン!玄関ドアを激しく叩く音がした。深い眠りに落ちていた僕は、やっとベッドの上で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む日差しがやけに眩しい。
ドンドンドン、ドンドンドン!
ドアの向こうの主は、一向にあきらめる気配がない。うるさいな、いったい誰なんだ。僕は立ち上がろうとしたが、どういうことか足に力が入らない。鉛のように重い体を引きずって僕は玄関ドアを開けた。
「タクミ……?お前、タクミだよね?」
「え?なに言ってんだよ」
そこにいたのは、友人のヒロだった。
「タクミ、大丈夫か?お前バイトにも来ないし電話にも出ないし……。それよりもいったいどうしたんだ?その顔……」
「顔……?」
「お前、どっか具合でも悪いのか?まるで別人だぞ。そんなにやつれて、なんだかまるで死人みたい……」
「そんなわけ……」
僕は玄関にある姿見に写る自分の顔を見た。
「なんだこれ……」
そこに写っていたのはげっそりと頬がこけ、ぎょろりと浮き上がった目の自分だった。
「なんなんだこの顔は……僕、どうしたって言うんだ」
「タクミ!落ち着け!いったいなにがあったんだ?」
僕はサクラが死んだ日から今日までのことをヒロに打ち明けた。
「お前、それやばいんじゃないか?そのサクラちゃんは死人なんだぞ」
「でも、僕は今すごくしあわせなんだ。サクラは死んだけど、僕を心配して毎晩会いに来てくれて。僕たち愛し合ってるんだ。こんなしあわせなことないだろ?」
「しあわせならお前なんでそんな顔してんだよ!その顔ただごとじゃないだろ。お前このままだと死ぬぞ!」
「うるさいよ!僕はこのままサクラと一緒にいる!誰にもそれを止めることは出来ないよ!」
「おい!しっかりしろ!タクミ!」
「もう、ほっといてくれ」
「いいから聞けよ!タクミ!タクミ?」
血相を変えるヒロを、僕は力ずくで玄関から閉め出すと鍵をかけた。
*
それから僕は、携帯の電源を切り、誰が訪ねて来ようとも二度とドアを開けることはなかった。サクラとリンと三人の時間を邪魔されたくない。僕は明るいうちは寝て、夜中になると目を覚ました。
そんな生活を始めてどれくらい経ったころだろう。サクラがいつもと違う悲しげな顔で現れた。
「サクラ?どうした?なにかあったのか?」
「私……もう行かなくちゃならないの……」
「行くってどこへ?」
「帰らなくちゃいけないの」
「帰るって、まさかまた僕を置いて行ったりしないよね?」
「……」
「無理!無理だよ。サクラ!サクラがいなくなるなんて、僕は絶対に無理だよ」
「でも……」
「お願いだ!サクラ!どこにも行かないでくれ。僕をもう一人にしないでくれ。僕はサクラがいないとだめなんだ。君もわかっているだろう?」
「……」
困り顔のサクラの体がみるみる透けてゆき、ふわふわと宙を漂い始める。
「いやだ!サクラ!待って!」
そんな言葉を背に、漂うサクラの体は4階の窓から外に出た。宙に浮いたサクラは悲しそうな目でこちらを見つめている。
本当にもう行ってしまうのか。僕を一人置いて。サクラがいない世界なんて、僕にはもう考えられないのに。
「行かないでくれ、サクラ!僕を置いて行かないでくれ。もう一人になるのはいやなんだ」
「私だってタクミくんと離れたくない。でも、もう戻らないと……」
「僕のこと、愛してるって言っただろ?」
「うん……タクミくんは?」
「愛してるよ。もちろん愛してるよ!僕にはサクラだけだよ」
「……ありがとう、タクミくん。私、その言葉が聞けてしあわせ。もう行くね」
「いやだ、サクラと離れるなんていやだ!離れるくらいなら僕は……」
「……僕は、僕は……」
「僕は、なに?タクミくん」
「一人になるくらいなら、僕は、僕は死ぬ!」
僕の、僕のその言葉を聞いたサクラはニッコリと笑った。
「タクミくん……私、嬉しい」
窓の外に浮いたサクラは、そう言うと僕の前に青白く透ける右手を差し出した。
「タクミくん……一緒に行こう……さあ、行こう」
「サクラ……」
「私、タクミくんがそう言ってくれるの待ってたの。ずっとずっと待ってたんだよ……。さあ、一緒に行こう」
「……うん」
サクラとずっと一緒にいられるのならそれもいい。サクラがいない世界で生きていたってしょうがない。言われるがまま、サクラの手を取った。
一瞬、今までの人生、親兄弟、友の顔が頭に浮かんだがもうどうにもならない。僕にはもっと大切な人がいるんだから。
そして僕は闇に、飛んだ。サクラと共に。
「これであなたは私だけのものよ」
飛んだ瞬間、そんな声が聞こえて僕は目を開けた。そして僕が最後に見たものは、吊り上がった真っ赤な目と異様に大きな口で笑うサクラの顔だった。
スローモーションのように堕ちていく僕は気が付いた。そうか、サクラは僕を助けに来たんじゃない。迎えに来たんだ。僕を一緒に連れて行きたかったんだ。闇の世界へ。道ずれに。
しばらくして、アパート近くで救急車やパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響く。たくさんのネオン煌めく大都会の夜に。
*
仕事帰りの人々で賑わう駅前の立ち飲み屋。
老若男女入り乱れるこの店は、この季節は風に当りながら飲める外テーブルが人気だ。そこに近くのビルで働くOLが二人。ビールをジョッキ半分ほど飲み干して女がこう言った。
「ねえ、こんな都市伝説知ってる?」
「どんな?」
「前にこの街で、男に捨てられて、ビルの屋上から飛び降りた女がいたんだって」
「やだ、なにそれ」
「ミュージシャンになりたくて田舎から出て来た若い女がいたのね。それが街で悪いことばっかりしている大学生にたまたまひっかかってね」
「それで?」
「それでその子は、まんまとその大学生のこと好きになったわけよ、騙されてるとも知らずに」
「そうなんだ」
「それで結構なひどい目に合わされたらしいのよ」
「ひどい目って?」
「ちょっと口に出すのも嫌なようなひどいこと。騙されてたってわかってその子、ビルの屋上から飛び降りたんだって」
「そう。なんかかわいそうだね」
「ほんと、同じ女としてはちょっと許せないよね。私たちも元は田舎から出てきてるわけじゃん」
「うん。でも、それのどこが都市伝説なの?」
「それがさ、その女が未だに成仏できないらしくて。うまく人間界に入り込んでは男の心を虜にしてあの世に連れて行くって話。しかも男は全員大学生なんだって」
「ほんとに?でもどうせデマでしょう、そんなの」
「わかんないよぉ。地名入りでネットに何度もあがるくらいだからね」
「えー。ホントなら怖いね。どんな女なんだろ。男が虜になるくらいだから、やっぱりものすごいいい女なのかな?モデルみたいな女とか」
「それは知らない。でもとても綺麗な黒い瞳の女で。それからオットアイの白い猫を連れてるんだってよ。そうネットに書いてあった」
今夜も駅前広場は、会社帰りの人々で賑わっている。
そして街灯の下には、Tシャツにジーパンの小柄な若い女がぽつんと一人。静かにつま弾かれるギターに合わせ、優しい声で歌いながら。時折その歌声に立ち止まる人がちらほら。そして歌う女の足元には、濡れ光る目の片方が青、もう片方が緑のオッドアイの白い猫。
了
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