映画『ジョーカー』を再び観て幻覚と現実の交錯を味わってきました
■はじめに
映画『ジョーカー』を再び観ました。
続編の公開を見に行きたくて「もう一度観ておこう」と思ったのですが、いやぁ、やっぱり凄まじい作品。
最初に観たときの衝撃を思い出しました。
時間が経つと、その強烈さが薄れていた部分もあったのですが、再び観るとその残酷さや狂気に改めて打ちのめされましたしあれから自分の環境の変化もあって色々と考えさせられるところがありました。
そんな『ジョーカー』を観た感想を、もう一度整理して書いてみたいと思います。
■幻覚と現実の曖昧な境界線の上で踊る
『ジョーカー』の中で、アーサーは現実と幻覚の境界を行ったり来たりしています。
彼が徐々に世界の残酷さの中で狂気に染まっていく様子を観ていると、一緒に彼の幻覚の世界に引きずり込まれていくような気がして、ゾクッとします。
特に、彼女とキスするシーン。
最初に観た時も「これ、現実じゃないな」ってうっすら気づいてはいたのですが、今回見直すと、アーサーがどこで現実からズレ始めたのか、なんとなくわかりました。
彼が拳銃を自分に向けるあの瞬間、頭をばん、とやるあの瞬間「今までの自分」を完全に捨ててしまったんだなと感じました。ここで彼は、現実の自分から完全に切り離され、ジョーカーとしての新たな自分に移行していったのかもしれません。
現実と幻覚が交錯する不気味さ
この映画全体が「何が現実で、何が幻覚なのか?」という曖昧さに包まれています。それが、映画全体の独特な不気味さや不安定さを生み出しているんです。アーサーがジョーカーへと変貌していくプロセスは、表面的にはわかりやすく描かれているのですが、どこか非現実的な感覚も漂っています。
彼の精神が徐々に壊れていく様子が、現実と幻覚の境界が曖昧になることで表現されていて、その揺れ動く感じが観ている私たちにも強く悲しく様々な感情で伝わってきます。
■「心の叫び」が生む共感
アーサーは社会や法律の枠から大きく逸脱した存在で、「悪役」として描かれているのは間違いありません。
でも、彼が抱えている「誰も俺を助けてくれなかった」という心の叫びは、どこか共感を呼びます。
それが不気味なところでもありますよね。アーサーの心情にふと「自分にもこういう部分がある」と感じてしまう瞬間があります。誰もが、ふとしたきっかけで「ジョーカー」になりうる素質を持っているのかもしれないと感じさせる怖さが、この映画にはあるんです。
■笑うタイミングがズレている悲劇、あるいは喜劇
改めて見て一番うわっと思ったのはアーサーの「笑うべきタイミングがズレている」ことなんじゃないかと思います。
彼は社会から疎外され、そのズレが原因でどんどん追い詰められていきます。まわりに合わせて笑っているシーン、病気で笑っているシーン、本当に笑おうとしているシーン、俳優さんの名演技も相まって、本当にクるシーンばっかりだったなと思います。
ジョーカーとして笑っている彼を観ても、そこに「笑い」の意味はなく、むしろ痛々しさすら感じます。
他人を笑わせようとして自分を犠牲にしてきたのに、最終的には他人を犠牲にして自分を笑わせようとする。
その転換が、彼の悲劇、あるいは喜劇をより深く感じさせるのではないかなと。
■まとめ:続編への期待
『ジョーカー』は、単なる悪役の誕生物語というわけではなく、私たちに「現実と幻覚」、そして「人間の内面に潜む暗さ」を考えさせる作品です。アーサーの狂気は、ただのフィクションにとどまらず、私たち自身の中にもある「ズレ」や「孤独」を映し出しているように思います。
彼の心の叫びは、私たちが日常で感じる疎外感や孤独感にどこか通じているのだと思っています。
続編、SNSとかではめっちゃ叩かれていますが、個人的にはすごく楽しみにしています。