『道徳に対して思うこと』 [本レビュー]道徳教育2021 2月号
『道徳教育』という雑誌を購入するのは初めてでしたが、
今回は『道徳授業者のための読書案内100』と読書関係だったため
アマゾンのオススメで見かけたので購入してみました。
学校教育で道徳に携わっている方にとってはメジャーな本ばかりなのかもしれませんが普段、道徳関連の本など読まない私にとって、はじめましての本ばかりでした。
私は『本好き』を自称し、本屋にも足しげく通い、様々な分野の本に目を通すようにしていたつもりでしたが、いかに『様々』がj自己満足的・限定的だったかを痛感させられました。
本書では『授業で使える絵本』、『教師として、今読んでおきたい一般書』『道徳を研究するなら押さえたい名著・大著』など、各トピックについて20名の先生方が5冊ずつのおススメ本をご紹介されています。
挙げられた本の中には、複数の先生方に推薦されている本もあり、特に気になりました。
いくつかをあげてみたいと思います。
『にじいろのさかな しましまをたすける!』 マーカス・フィスター作『ないたあかおに』 浜田廣介文『ほんとうのことをいってもいいの?』 パトリシア・C・マキサック作
『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎作
『道徳科初めての授業づくり ねらいの8類型による分析と探究』 吉田誠・木原一彰編著
『小学校・中学校 納得と発見のある道徳科「深い学び」をつくる内容項目のポイント』 島恒生著
など。
島先生の著作は他のものも挙げられていました。
作品は違うものの、エーリッヒ・フロムの著作(『自由からの逃走』、『愛するということ』)も複数の方に上げられていました。
少なくとも上記に挙げたものについては、今後原著を読んでみようと考えています。
さて『道徳』についてですが
コトバンクを利用して調べたところ
デジタル大辞泉の解説として
1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わなければならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
2 小・中学校の教科の一。生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。昭和33年(1958)に教科外活動の一つとして教育課程に設けられ、平成27年(2015)学習指導要領の改正に伴い「特別の教科」となった。
3 《道と徳を説くところから》老子の学
と記載されていました。
インフラとしての教育システムを構築する!
などと言っている私にとって道徳的な側面は、その教育の礎となるべきものと考えます。
社会で生活し、他人と共生していく中で、高い倫理観は大きな価値をもつと考えます。
もちろん簡単なことではありませんし、そんなことを言っている私自体が
高い倫理観を兼ね備えられているか疑問が残ります。私自身が引き続き自己を修めていかねばなりません。
とはいえ、高い倫理観をもったリーダーに統率された組織ほど、基礎がしっかりしていて
メンバーが団結できる集団は存在しません。
どんなに優れたメンバーを集めても、倫理観が欠如していれば、結局集団としての機能は限定的となってしまいます。
とはいえ
です。
『道徳』って言葉。かなり堅すぎませんか!?
上記の3にもみられるように、中国の思想のように聞こえます。私自身は『自分がされて嫌な事は他人にしない』、『自分の身を修め、家族を治め、村、町を治めることができなければ国など治められるはずもない』、『言葉よりも行動に重きを置く』といった儒教的な考えを私の理念のベースの一部として取り入れています。
そんな私であっても『道徳』という言葉をみると、あまりに仰々しすぎて『ギョッ』とします。
まさに『ギョ ギョ ギョー』です。
いじめやパワハラ、身近な貧困に対する『見て見ぬふり』、『法さえ犯さなければ何をやっても許される』ような日常生活で頻繁に目にするような態度
もちろん、これらも『道徳』がカバーする範囲ですが
『いじめについてどう思う?」というテーマに対して『国際平和への道 戦争、内戦をゼロにする』という目標を掲げているような違和感を覚えてしまいます。
個人的には『社会性』ぐらいの言葉の方がしっくりくる印象です。
さて私が『倫理』において大切だと思うのは『一体感』です。
『ダイバーシティ(多様性)を認める』といった言葉をよく見かけますが、本質は『自分と他人は違う。それを認めた上で、自分と同様に他人の存在や意見も尊重することが大切』だということに尽きると思います。
国籍や、人種、肌の色や宗教、性別が同じでも、いじめや差別は起こりえます。ダイバーシティという言葉を出すまでもなく、他人一人一人を尊重できてさえいればそれに事足りると考えます。
むしろ、ダイバーシティという言葉を使うことで、却って区別されるべき項目を増やしている気がしてなりません。
16世紀に新大陸生まれの純粋のスペイン人を指して『クリオーリョ』という言葉が使われました。彼らは生物学的には純粋なスペイン人と何ら変わりがないにも関わらず、新大陸で生まれたというだけで、個別の名称で呼ばれ、本国での出世の道を断たれました。
真に平等かつ公平な社会においては、『ダイバーシティ』という側面は既に全く気にならない状態にあると私は考えます。
誰もが、他人を自分同様に大切に扱うことができれば、お互いに一体感が生まれます。一体感が生まれれば、自分の立場だけでなく、大きな視野から物事を捉えることも可能となります。
一例が交通渋滞です。
片側一車線の道路で、もうしばらく進むと合流してくる車線があるとします。
一度合流側の車に道をゆずったが最期、追随する車がなだれこみ、今度は自分側の車線がつまってしまうようなことは少なくありません。
相手の車、あるいはその後続の車にどんな人が乗っているか分かりません。結果、ゆずらず通り過ぎてしまおうと考えるようになります。
もし仮に、こちらがゆずったら、次はまたゆずってもらえるとわかっていれば、
となりの車線の人も結構待ってるのかもしれないな。先にゆずってあげよう
と考えやすいはずです。
大渋滞を起こしていて、原因がわかってしまえば、
ただ無理矢理に車線変更をしようとした一台のせいで、後続の車がつまってしまっているだけといったケースに遭遇することは少なくありません。
大金を投じて規格外の道路拡張工事を行わずとも、譲り合いだけで解消できる交通渋滞は山ほど存在すると考えます。
全人類が一体感で包まれる日など来るのでしょうか。『無理』といってしまうのは簡単ですが、少しでも広げていきたいと考える今日この頃です。