ep22 ジェリーフィッシュ
四度目の恋の始まりもまた、突然だった。彼女からの連絡はいつも忘れた頃にやってくる。家を出たら雨が降っていて、傘をどこかに忘れていたことに気づくみたいに。
夏の焼けたアスファルトが、雨に打たれて吐き出す匂いが好きだ。たくさんの、忘れられた思い出の匂いが、街中にあっという間にもう一つの、目には見えない街を作る。そんな夏の夜、僕は目に見えない街を歩く。いつもと同じ道を同じように歩いていても、昔のことばかり思い出して、ぎゅーっと、結束バンドで縛ったみたいに、胸が苦しくなるのが、嬉しい。
苦しいくらいに切ない物語が小さな頃から好きだった。伝わらない想い。不器用で真っ直ぐな二人。どうしようもないくらい想いあって、どうしようもなく離れてしまう物語はきれいだ。だって現実の僕たちの間には、本当に自分の力ではどうしようもないことなんて、ほとんどひとつも無いんだから。自己責任。変えられるのは自分だけ。今が残りの人生の始まりの時。そんな言葉が僕は、心の底から大嫌いだ。
「恵比寿で飯でもうどう?」
「えー、めんどい。品プリきて。」
言われるがままに電車に乗って15分。品川の街はいつになく静かだった。イーストタワーのロビーで彼女を待つ間に、僕は2年前のことを、一生懸命思い出していた。彼女のミニクーパーに積まれたままのiPodのこと。テラスのジャグジーから見上げた明け方の空のこと。タバコの箱を栞がわりにして、ベッドサイドに置かれていたサガンの小説のこと。短い旅の終わりに立ち寄った、借りたばかりの彼女の秘密基地には、真っ白な花瓶が一つだけ置いてあった。海から吹く風がカーテンを揺らした。フローリングに横になった彼女の背中。やさしくまわりこむきれいな光。
エレベーターホールに、彼女の姿を見つけた。彼女はほんの少しだけ、2年前よりやせたみたいだ。
2年前の春、僕たちは日本のほとんど西の端で、三度目の恋をしていた。一緒に泊まったホテルのテラスにはジャグジーがあって、そこから見える海は鏡のように静かだった。ホテルを出た僕たちは、借りたばかりの彼女の秘密基地に立ち寄った。住宅街の角の海が見える家には、まだ何も置かれていなかった。
彼女の家は、地元の大人なら誰もが知っている大きな病院。その頃彼女はまだ研修医だった。しばらく大学病院で働いたら、彼女は実家の病院に入る。誰かからはっきりと強制されたわけでも無いけれど、ずっと前からそう決まっている。なるべき形がもう決まっている真っ白で強い繭の中で、それでも彼女は、何か全然、違うものになろうとしていた。
彼女の秘密基地を出てからほどなく、僕たちの三度目の恋は終わってしまったのだけれど、それから僕にもいくつかの変化があった。大学をなんとか卒業して働きはじめると、世の中案外捨てたもんじゃないというか、東京ではみんな思ったよりも楽しく過ごしていて、お金はそんなにないけれど、コンビニでカップ麺とハイボールとスモークタンを買うのに躊躇しないぐらいの自由はある。若くて小さな会社はそれなりに活気があって、とりあえず人の役に立っているということが、意識の底の底の方で、僕をなんとか、ギリギリのところで支えてくれている。
「太ったねえ!」
彼女の第一声に、僕はそんな二年間がまるで無かったみたいに、一気に彼女のペースに引き込まれる。少しかすれた彼女の声は時々裏返る。裏返った不安定な波形をなぞるように、僕の声もひっくり返って、ブサイクに鼻が鳴って、それがまた彼女を笑わせる。息ができなくなるくらいお腹を抱えて笑う彼女を見て、同じように笑う僕の顔が真っ赤になるのが自分でわかる。
そんな声と息のリズムが、好きだったんだ。彼女の容姿の美しさとか、性格の悪さとか、境遇とか、そんなもの全部どうでもよくなるくらいに。
品川駅前の居酒屋でランチを済ませた僕たちは、早速手持ち無沙汰になった。映画か、水族館か。めんどくさがりな僕たちの選択肢はそこから歩いて行けるこの2つに、まず絞り込まれた。上映中のラインナップを調べてみると、退屈すぎて即却下。そうして僕らは、都会の真ん中の水族館に吸い込まれた。
「水槽を買ったの、めっちゃ大きいやつ。でもさ、あの家にはあまにしか行かないし、誰が手入れするの?と思って、そのまま放っておいてる。空っぽのまま。」
彼女は秘密基地の今のことをたくさん教えてくれた。
「それから、籐のロッキンチェアー。めっちゃ高くて笑った。あと布団と、ティファールもあるよ。でもそんくらいかな。ていうかもう半年くらい行ってないわ。」
彼女はそう言って笑った。2年前何も無かった彼女の秘密基地に、物が増えた。籐のロッキンチェアーと、空っぽの水槽。カーテンは探しにいくのがめんどくさくて、まだつけていないそうだ。
クラゲの水槽の部屋で、僕らは長いこと立ち話をした。真っ暗な部屋は、ところどころに作られた円柱状の水槽が時々赤く光ったり、青く光ったりして、僕らの目的とか思惑とかを隠して誤魔化すのにちょうどよかった。
「ベニクラゲの仲間ってね、死なないんだって。大人になってしばらく経つと、また子供に戻るの。」
「不老不死ってこと?」
「いや、年は取るから正確にいうと、少し違うかな。大人と子供を行ったり来たりするみたい。」
大人と子供を行ったり来たり。ちょうど最近の、ぼくらみたいだ。最近?いやいやひょっとしたら、僕らが知っている大人たちも、実はそれほど変わらないのかもしれない。行くあても無いままに漂って、ゆらゆらと行ったり来たり。もうすっかり大人だって思っていても、安心して寄り付ける場所を見つけたら、そこにピタリと張り付いて子供に戻る。
だって僕が子供の頃に想像していた二十代は、もっと大人だった。それがどうだろう、今夜はこれからどうなるんだろう?ということばかり考えて話に集中できないでいる僕と、口を開けたままクラゲの水槽を見つめる彼女はどっちも、まだ小さな子供みたいだ。
「今年、海行って無いなー」
「俺もだ。
「お盆休みは帰って来ないの?」
「うーん、今年はやめとこうかな。」
やめとこうかな、なんてカッコつけて言ったけど、実際は交通費がもったいないというだけのこと。東京と僕らの街を隔てる1000キロメートルは、やっぱり遠い。
「帰ってきてよ。」
急に真剣な彼女の一言に、固まってしまった。
「いや、なんでもない。」
そう言って彼女は隣の水槽に歩いていった。僕の直感が間違いじゃなければ、彼女の言葉はお盆休みに、とは少し違う意味を含んでいた。
どこにも行けない私を置いて、あなたはどこへ行こうというの?
いやいや、きっと僕の勝手な思い上がりだ。そう思いたい気持ちと、彼女の期待に応えないまま生きて、何の意味があるんだって思う自分と、真っ二つに裂けてしてしまいそうな2つの気持ちが僕の中を暴れ回る。嵐の夜の海みたいに、上も下も、右も左も、急に何もかも、わからなくなる。きっと彼女はこの一言を言うために、僕をここへ呼び出したんだ。
どこへ行くの?
置いていくの?
いま、何をしてるの?
ねえねえ、
あのさ、
どうした?
おーい。
手を伸ばせば触れられる距離でしか届かない、声の温度がある。声の温度が届く距離で、ある人とこの先ずっと生きていきたいと思ったなら、その感情はきっと愛だ。
広い広い海の中で、クラゲは一体何度、交わりたいと思う仲間に出会うことができるのだろう。彼女の伸ばした細い腕の先の針が僕の肌を刺して、痛い。クラゲの部屋から出て行く彼女を追いかける僕はもう、その毒に一度死んで生まれ変わってしまったのかもしれない。まっさらな、生まれたての子供に。
「海行こうよ、海。」
「え?いいよ。」
どうやって、とも、なんで、とも聞かず、僕の突然の提案を彼女は2つ返事で受け入れた。大急ぎでカーシェアのポートを探して予約した。
どこがいい?お台場?なんかいやだ。湘南?それもいやだ。とりあえず、アクアライン通って、千葉の方までいってみるか。いいね。
プリンスホテルの地下の駐車場から、僕たちは車を走らせた。2年前は彼女のミニクーパーに乗っていたけれど、今日は借り物の銀のスイフト。彼女は車に乗るなり靴を脱いで、助手席で小さく丸まった。
「沖縄行きてー」
通りがかった羽田空港を横目に見ながら、彼女がつぶやいた。
「いいねえ。」
「あんたと二人はちょっとなー。」
「いやいや何も言ってないやん。」
僕の反論はしらじらしい。ふふん、と意地悪な顔で彼女がこちらを見ているのがわかる。そうやってわかっているのに僕をからかう彼女はやっぱり、小さな子供みたいだ。
木更津の海岸の公園に着いたときには、もう夜になっていた。たった数十キロ走っただけなのに、向こう岸に見える東京の夜景はミニチュアのおもちゃみたいだ。
そうすると、1000キロ先の僕らの街は?東京に暮らす人たちにとっては、ほとんど、無いのと同じかもしれない。
よく晴れた夜だ。東京のミラージュが、海岸の僕たちをぼんやりと照らす。ちゃぷちゃぷ鳴る波の音のリズムも、黙っているのに好都合だ。
「クラゲおるかな、クラゲ。」
しゃがんで海面をのぞきこむ彼女の言葉も、だんだんとあの街の響きを取り戻していく。一緒になって黙って海面をのぞきこんでいると、彼女がこちらに目を向けた。つられて彼女の方を見る。じーっとこちらを見つめる顔が、次の瞬間に大人びた顔に変わった。
「突き落としてー!」
彼女は大きな声でそう言って立ち上がった。
「なんでや。」
「別に、なんかムカついた。」
ベンチに座って膝を抱えた彼女はそれからしばらく、何も言わなかった。何も映さない海面を眺めているのにも飽きて振り返ると、彼女はぼんやりと向こう岸を見ていた。
「東京、明るいなあ。」
「ほんとね。」
「そりゃまあ、帰りたくも無いわなあ。」
彼女の声が甘えるような、小さな湿った声に変わった。
そろそろ伝えよう。さっき急に生まれ変わった、僕の気持ちを。
「やっぱ帰ろうかな。」
「お、夏休み取れるの?」
「いや、そうじゃなくて。」
「え?」
彼女は僕の次の言葉を待っているらしかった。珍しく緊張しているのが、横を見なくてもわかる。
「秘密基地、またつれてってよ。何なら管理しようか。その代わりタダで住ませて。」
「しね。サイテーやな。」
彼女はそう言って、かすれた声で笑った。いつもより震えた声は、泣いているのかもしれなかったけど、僕は横を見れなかった。
「え、ていうか、まじで?うそ?しごとは?責任取れとか言わんでよ。」
「言わんし。とりあえず仕事探さんとな。」
帰ってきてよ。その一言は、真っ暗な海の真っ暗な檻から、彼女が伸ばした細い腕だ。透明なその腕の先には小さな小さな、針が付いている。ギュッと掴んだものだけを痺れさせる、優しい毒。
前の三度と同じように、気まぐれにまた彼女は僕から離れていくのかもしれない。でもそれでもいいと思った。せめて近くにいることができれば、小さな信号だって僕に届く。勇気を出して、震えながら言わなくたって、彼女の声の温度を、感じ取ることができる。
秘密基地の水槽には、クラゲを買おう。ベニクラゲ。水槽でどれくらい生きるのか知らないけれど、もし長く生きるのなら、僕たちもベニクラゲと一緒に、大人になったり子供になったりを繰り返そう。
それから僕らは、朝になるまで海岸の公園でいろんなことを話し合った。真っ暗な海で同種の生き物に出会えたことを喜ぶように、一生懸命声を裏返して話す彼女が愛おしくて、僕の心はほとんど痺れてしまっている。
よろしく、僕の大切な人。真っ暗で、絶望するほど広い海でたまたま出会った、同じ生き物だと思える人。
<了>
日本の西の端にある、とある架空のニュータウンにまつわるオムニバス小説を書いています。1本100円、ep1-6,21,22は無料です。
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