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みんなの天孫降臨・NOW

魂が本質で
魂が天に帰るのなら、
僕らのホームは天ですね🏠

古事記とは
天の神々が地上に降りて
人間生活を送った記憶です。
文字を連ねただけの“記録“ではない。
血湧き肉躍り心跳ねるエランヴィタール。
そのような
掛け替えのない思い出という記憶です。

神は魂です。
その魂が人間生活を送った。
これというのは
今を生きている僕ら人間と同じことですよね。

古事記とは
神々という他者の記憶ではないのです。
僕達自身の記憶です。
自分事として思い出すように受け容れる時、
血湧き肉躍り心跳ねる感覺が蘇ります。

地上で今まさに僕らは住んでいます。
神々が魂をもって人間に宿った
というのは
我々が魂をもって人間に宿って
この地上で人間生活を送っている事と同じです。

【天孫降臨しているのですよ。
  僕たちもまた。】

神代から今の今まで
ずーーっと天孫降臨しているのです。
つまり
人とは皆、
天孫降臨して成り立っているのです。

人の本質は魂です。

魂というのは
形を取れない。
つまりそれというのは
広い意味で“重力が無い“のです。

魂というのは
形を取れない程に“軽い“のです。

そのような魂が
意識の上で天孫降臨していない時、
まさに【地に足が着かない】

魂のままで浮遊して生きている感じ。
(↑僕は今まで(今も😳)この感覺でした)

覺悟を決めて天孫降臨しない内は
【愛の掟】に縛られ続けます。
魂のまんまで生きている割合が多いですから、
人間として生きていても
天界の法律のような【愛の掟】を遵守する傾向を保って人間生活を送るのです。

【これぞ人間】みたいな人というのは
(良くも悪くもですが)
この世的な成功を収めています。

【愛の掟】に縛られることが少ないですから、
自由にこの世を生きられて、
この世でやりたいこと、
この世でしかできないことに突き抜けられるのですね。

魂の罪を思う時、
何もできなくなる僕がいます。
たとえば
お互いに好きでもない人との性愛とか。

この行為に僕は罪を感じていたんですね。
【愛の掟】への意識が
人間になってもブロックとなって突き抜けられずにおりました。

今生での母からの刷り込みはあったにせよ、
子供が“僕“ではなくて、
違う他者であったなら、
“僕“のように性愛を罪と受け止めていない
と思うのですね。
これというのはつまり
僕の魂だからこそ
自ら望んで【愛の掟】を遵守した結果だと振り返るのです。

このように振り返ればこそ
【愛の掟】というのは
僕自身が創り上げたものと言えるのですね。

その【自分の掟】に照らし合わせて
罪の概念ができているのです。
(※人間のブロックと仕組みは同じ、思い込み)

僕という自分とは愛ですから
【自分の掟】とは
やはり
【愛の掟】と言えますよね。

一方で
【愛は限りなく自由である】
という意識も僕は同時に持ち合わせていたんですね。
その狭間の葛藤が苦しかった😭

↑天女さん。生きてます❣️🥰

腹を据えて天孫降臨しない間は
天女みたいに浮遊して生きている感じ。

天女は天の羽衣がないと飛べません。
天界にも帰れません。

でも天女のままでいても
地に足が着いていない訳です。
地とは女性性・八です。
形あるもの。
目に見えるもの。
つまり物質的なものたちです。

僕は高校生から理数系が苦手になりました。
ここまではよく聞く話。
僕の場合、
その後、算数まで苦手になって
今では二桁の足し算さえできなくなったんです😳
理数系の内容というのは
この物理宇宙の法則を扱います。
つまり
地なんです。八が理数系です。
女性性を扱う學問ですから
女性が好きな男性に理数系が好きな人が多いのです。

僕が女性を拒絶した頃から
理数系が苦手になって
最近まで女性を否定していましたから、
遂には算数までできなくなっているのです。

・お金が苦手
・勝負事苦手
・性愛苦手
・勤め人苦手
・豊かさ苦手
・競争苦手
・エンタメ苦手

これら苦手なものたちは
全部この世にあるもの。
つまり女性性(地・八)です
そして
これら全てが【僕の掟】では罪だったのです。

八とは女性性です。
それを僕は罪と定義しました。
これを
【罪という片翼】と捉えます。

ここから対翼を考察すると
罪の概念を生み出したのは
【愛の掟】です。
愛から罪は生まれているのです。
そして
八(女性性)の対は三(男性性)です。
つまり
【愛という片翼】が導き出されるのですね。

この【罪という片翼】
そして【愛という片翼】
眞ん中にある本体が【人としての命】です。

人としての命を維持する為に
他の命を殺生して食べる
というのにも僕は罪を感じていたんです。

その事も踏まえるならば
愛とは何か?
罪とは何か?
この命題には必ずそこに【命】があったので、
これらの両翼が運ぶ本体とは【命】となります。
正に【命題】として
それは僕の人生にあるものでした。

そして
僕の思うあらゆる罪を平氣で犯して
のうのうと生きる人々に怒りを覺えておりました。

この怒りを僕は常にたゆまず持ち続けて生きていたんです。

怒りだけによらずですが、
ネガティヴな思いというのは
大変重いのですね。

これら全てと僕の人生経験全てから
ある発見をしたのです💡✨

僕はこの“重し“を使って
『この地上にアンカリングしていたのだ‼️』
と。

腹を据えての天孫降臨をしておりませんでしたから、
“重り“がないと
羽衣を纏わなくても
魂だけが軀を残して天に浮上するのです。

僕の魂の質として
自分で申し上げるのもなんですが、
とても大きい上にものすごく純粋なんです。

それが故に
浮力が半端ないのです🎈

怒りを持って
無理矢理にでもアンカリングしていない事には
天に召されてしまいます。

海にダイビングする時に身に付けるウエイトのように、常に怒りを身に付けていたんですね。

《怒り》とは《碇⚓️》です。
《怒り》で《アンカリング》です。

大変僕らしい掛け言葉を用いた氣付きの為のメッセージとして、僕には《怒り》が主として使われていたんですね🤗

【罪の片翼】と対を成す【愛の片翼】
これは同じものですから
“罪に対して怒りを覺えた“
というのは
“愛ゆえに怒った“
というのと同義です。

罪と愛とは両翼です。
陰と陽の関係です。
影と光と同じです。

それで
今の僕というのは
大して怒りが無くなっているんです。
代わりの心配とか不安とかはありますが、
怒り程の重さはないのですね。

とすると
このまま放置していたら
僕は天に召されます🪼

人でしか成せないことができないまま
不名誉の帰還になりかねない。

罪をネガティヴとするならば
愛とはポジティブです。
罪と愛とは同じもの。
ネガティヴとポジティブとは
対を成した同じものなのです。

ネガティヴは
たとえば一つの怒りであっても、
その質量は重いのです。
一方、
ポジティブというは
その性質的に軽いのですね。

感覺として
幸せは重くないでしょう❓🤗
樂しみって重く負担になりませんでしょう❓🥳
ですから
より多くの幸せを
より多くの樂しみを
無理矢理にでも見つけ出して
数多く身の回りのポジティブを掻き集めて
ウエイトとして身に付けないと
本当に僕はやばいことになるんですね😇

つまりです。
【感謝】の対象を見つけ出す生き方が
そのまま幸せな人生となり、
僕自身の使命を成すための
命の時間を延長することとなるのですね。
それはやっぱり幸せな人生となるのです。


僕の経験上、
最大に【感謝】できるようになるには

樂しい⭐️
嬉しい🌟
美味しい😋
柔らかい🌸
温かい☕️

というような
心地良い感覺を得ること。
この感覺の上に【感謝】すると
【感謝】に心地良い重さが出るのです。

これらの感覚を得るには
➖愛でる➖(めでる)
という意識を持つことです。

身の回りにあるものを
➖愛でる➖
そして
愛でて得た感覺を味わいながら
【感謝】するのですね。

愛でたい→男性性の志
とは
めでたい(芽出度い)→女性性の享受
です。

愛でること❤️とは
おめでたい㊗️のです。

祝福としての人生がここに在るのです。


僕には両翼がありますから
浮遊しなくても
自分の両翼で飛べる🕊️✨



まだまだ書きたいことは
富志三ほどありますが
今日はこの辺で🙏

両國編は次回にも続きます🌳

↑月と太陽に挟まれる天女達は星々として奏でる♪


最後までお読み戴き
ありが㊉ございました☺️✨


またねっ👋

↑千代の富士😍


祭統 白宇
SHIR㊉W

↑またね👋❣️

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