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なごみ
《統合》
という言葉に対して
僕の感覺として
“完璧さ“
を持っていました
対極のものが“完璧に“合致する
のようなイメージです
それは
たとえば
人との統合でも
個人の中の男性原理と女性原理の統合でも
大人の自分と子供の自分の統合でも
陰陽の統合でも
そこに“完全な確定“を見ていたんです
思うのは
限りのない発展を目指すのが宇宙
であるならば
完璧な発展を遂げた時とはゴールで
その時そこに
限りはある
となります
限りのない発展
という宇宙の大前提を思えば
完璧という意味を含んだ統合
というのはあり得ない
もしも完璧という言葉を使うなら
不完全な状態
未成熟な状態
をさして
それも含めて完璧である
と言わざるを得ません
であるならば
失敗
過ち
というものも含めて
完璧の中にいる
という言い方になります
大局的な宇宙からみれば
全ては順調で完璧なのだ
となります
その視点とは
限りのない永遠の時間そのものである
宇宙から見た時の話
となります
個別になっているこの地球の僕たちには
寿命があります
目には見えない宇宙という闇で
一つに繋がっていることを
目には見えない心で感じ取りながら
同時に
目に見える地球という光の中で
バラバラに個性を発揮する使命を果たすために
目に見える時間(寿命)を意識する必要があります
光と闇という対極
同時にそれらを理解し実践するのが
人間のお役目です
これは
たとえば
男性原理と女性原理という対極でも
同じことになります
そこをさして
《統合》という言葉は使われるのだと思うのです
先にも述べましたように
《統合》
という言葉を用いても
そこに完璧で永続的なものはありません
時に
どちらかに傾くことは多々あることと思います
ゴールのない《統合》を目指して
限りない挑戦を試みるのが人生で
その過程をさして
人生に意味はあるのだと思いますし
そこをさして
人生は難しい
と人々は言うと思うのですね
統合を目指すことは
調和を目指すこと
これも僕個人の感覺になりますが
統合という言葉に西洋的なものを
調和という言葉に日本的なものを感じ取ります
そして
統合にせよ
調和にせよ
それらは
たった一つでは成し遂げられないものです
必ず二つは無いと成立しない
という大前提があるのです
つまり
元々のワンネスという闇一つ(白一色)の世界では
統合という概念も
調和という感覺も
生まれていなかったはずなのです
この世の醍醐味は
もっとも難しい
バラバラの個性との統合
バラバラの価値観との調和にある
とも言えると思うのです
そして
そのような統合や調和を思った時
僕は合掌🙏するのです
伍本の指を立てた左(火足り)の掌と
伍本の指を立てた右(水切)の掌を合わせると
それは
『ごめんね🙏』
という謝罪を表します
統合を西洋的なものとすれば
『ごめんね』(I'm sorry)
は敗北です
しかし
調和を日本的なものとすれば
『ごめんなさい🙏』
『すみません🙏』
にはありがとうの意味も含まれます
たとえば
時間や道を街を行く人に訊く時
『ちょっとごめんなさい🙏』
『すみません🙏』
からお声掛けします
僕たちは和の國の人間です
ここは西洋の裁判所ではありませんから
日常で謝罪の言葉を使っていいのです
はじめ
『ごめんなさい🙏』の謝罪から入る調和とは
最後に
『ありがとう🙏』の感謝で終わるのです
『ごめんなさい🙏』
と謙虚にはじめ
『ありがとう🙏』
と感謝で終わる
感謝とは
謝ること(謙虚さ)を感じ切った時
最後に残る
➖ありがとう➖
➖在我尊➖
日本人に生まれて良かったなぁ
としみじみと思うのです🍵
祭統 白宇
SHIR㊉W
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