「親ガチャ」の大ハズレ 実家の記憶
最近ネットに登場したバズワード「親ガチャ」。筆者はかなりのハズレを引いた自信があります(笑)。
まず超重度ASDな父親、「楽しむ」「遊ぶ」の概念も、友達も趣味も一切存在しませんでした。
幼少時の筆者は父親に公園とかへ連れていかれるのがとにかく恐怖でした。キャッチボールとか、ランニングとかやらされて、出来が悪いとすごい形相で怒鳴られ、暴力を振るわれたからです。小学校の頃、公園で父親から顔面にボールを投げつけられて鼻血が吹き出し、痛みに泣き叫ぶ筆者を「そんなのも取れないなんて情けないと思うだろ!」と怒鳴りつけた父親が鮮明に記憶に残っています。
実家の前に学校があり、よく父親にその校庭に連れて行かれました。やらされたのが、建物の壁にボールを投げてボールを拾うのを30回、落としたら1回マイナス。全然楽しくもないし、出来が悪いと父親が怒り狂うので、ただひたすら恐怖で苦痛でした。
確か8歳のとき、途中で父親が用事があると帰宅、その間にやってるように言われた筆者は一人でボールを投げて拾って、ひたすら繰り返して30回終わりました。戻ってきた父親に「終わった」と言うと、父親は凄まじい形相で「うそつけ!そんなに早くできるわけないだろ!」と怒り狂い、またゼロからやり直し。
帰ってから母親にそれを訴えた瞬間、父親がものすごい声で吠えるので恐怖で子供部屋へ逃げ込みました。
もう一つの恐怖が父親に勉強を教えられることでした。出来が悪いと恐ろしい形相で筆者の頭を殴るので、まさに拷問でした。
父親に「喜怒哀楽」はなく「怒怒怒怒」だけでした。
父親の帰宅時にゲームで遊んでいた
勉強をしないで寝ていた
父親に勉強を教えられて問題が解けなかった
そんな些細な理由で怒り狂った父親に頭を延々と殴られ続けたのは1回や2回ではありません。
父親はASDあるあるで外見に全く無頓着、気にすることを無駄どころか悪とすら考えていました。子供の筆者が1人で風呂に入っているといつも後から(筆者が嫌がっても強引に)入ってきましたが、筆者がリンスを使うと殴られました(姉も整髪料を使つけだけで殴られたことがあったそうです)。
風呂場にのシャンプーがリンスインだと「普通のはないのか!!」風呂から母親に向かって吠えていました。
一方の母親(今年他界)は支配的で感情の起伏が激しく、機嫌次第で言動がコロコロと変わり一貫性ゼロ、機嫌が悪い時の暴言はすさまじいものでした。
そして母親は全てが自分中心に回るのが当然という価値観で、筆者にそれを執拗に押し付けました。癖っ毛の筆者は他の兄弟が床屋に行く中、1人だけ床屋に行かせてもらえず、伸び放題の髪型を強要されていました。
学校ではその髪型で
ボサボサ
チリチリ
ルンペン といじめに遭う日々。
床屋に行きたい!他の兄弟だけずるい!と筆者が絶叫するも母親は無視。
中学入学と同時に母親に強要された部活と部内でのいじめ、それを家で嫌だと言うと部活狂いな長男の嫌がらせと暴力。ストレスのせいか、部活をやらされていた中1-2の間は忘れ物も多く、成績もどん底でした(偏差値は40台)。できの悪い筆者に母親は容赦ない暴言や暴力を浴びせました。足で踏みつけられ、首を絞められたことも。
夫婦仲は最悪で夫婦喧嘩も日常茶飯事。毎回同じ内容で何時間も怒鳴り合い、HSP(当時はHSC)の筆者が怒号に耐えられずドアを閉めようとすると暴言の矛先が筆者に向かいました。翌朝は機嫌最悪の母親が鬼のような形相でリビングや子供部屋に居座り、暴言を撒き散らすのが常でした。
ネットもない子供時代、虐待を受ける実家といじめを受ける学校・部活が自分の知る世界の全てでした。
筆者が筋トレで太り始め、また自分の収入で床屋に行き髪を短くすると母親は怒り狂い、床屋から帰るたび、プロテインのダンボールが届くたびに母親と怒鳴り合いの大喧嘩。15年前に現職に就き、一人暮らしができる収入ができると同時に実家から遠ざかり、ここ10年は葬式と法事以外一切実家に寄り付きませんでした。
今年夏の母親の死は筆者にいかなる悲しみも喪失感も未だ一切もたらさず、涙も1滴も出ません。むしろ自分に絡まっていた鎖が何本か消えたようにすら感じました。
そんな自分の人間性は壊れてしまったのかと思いました。
その直後の大阪旅行の最後、4年前大阪で他界した友人が生前カウンターに入っていたお店に行きました。店長と思い出話をしていると、少し目が滲んできました。
不謹慎かもしれませんが「あ、まだ人間だったみたい」と少し安心したような気分でした。
昨年の休職とリハビリをきっかっけに筆者は自分を修復し始めています。周りも自分自身でも40年間壊し続けてしまいましたが、少しずつ直していきます。まだ完成は先のようですが。