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生きる価値なんて誰にもないと思うし、死ぬくらいなら暴れてやりたいと思う心を音楽とともに綴る。

※この記事内で出てくる考え方はすべて私個人の考えであり、世の中のべき論・正解だとは一切思っていないのでご理解ください。
ちなみに、こんなテーマですがメンタルはめちゃくちゃ良好です。むしろメンタル良好じゃないとこんなテーマは書けない。病んでるときに書くと死にたがるほうに寄っていっちゃってフラットな思考にならないからね。


意外と「死にたい願望」が薄い理由

ふと、「自分ってゴミメンタルで自己肯定感皆無で病んでばかりな割には、死にたい願望がさほど強くないな」と思った。死にたいと思ったこと、死ぬ妄想をしたことは数え切れないほどある、でも行動に移そうと思ったことはない。今後も病み続けるとは思うけど、自ら命を絶つことはまずないだろうなと思っている。

その理由は色々あるけど、大きなものだと二つ。
一つは、人間には誰にも生きる価値なんてないし死ぬ価値もない、と思っているから。(これだけ書くとちょっと語弊があるかもだけど、まあこのあと説明する。)
もう一つは、誰にも迷惑をかけず・悲しまれずに死ぬのは癪に障るし、どうせ失うものがないなら暴れて大迷惑をかけるほうがいいと思うから。

・・・

そもそもの前提として、私の中では「死にたい」の根源って二つに分かれている。一つは「自分は死んだほうがいい」という自己否定。もう一つは、「死んで楽になりたい」という逃避。

この自己否定を打ち消すのが「誰にも生きる価値なんてない」という考え方で、逃避を打ち消すのが「死ぬくらいなら誰かに迷惑かけたい」という考え方だ。


生きる価値について

絶対的な価値なんてなくない?

実家で暮らしていたときのこと。リビングを通りかかったら、母が観ていたドラマからこんなセリフが聞こえてきた。

「世の中には不必要な人間なんていない」

前後の流れを知らないので何とも言えないし言う資格もないが、この言葉だけを切り取った場合、私はこの言葉が大嫌いだな~と思った。

似たような系統で「人は誰しも生きる価値がある」なんて言葉もあるが、これも嫌いだ。

誰にも生きる意味や価値なんてない。
究極を言えば、誰も必要じゃない。
だからこそ、自分が必要かどうかとか、自分に意味や価値があるかどうかとか、そんなことは一切考えず、あるいは勝手に見出してもいいけど、とにかく生きてもいいし死んでもいい。それは自分自身が決めることだから、他人がとやかく言うべきじゃない。死ねも生きろも言うべきじゃない。
私はこういう考え方をしている。(これはあくまで私の中のべき論でしかないです)

なぜなら、どんな物事にも絶対的な意味や価値などは存在せず、すべてが主観的・相対的だからだ。
例えば私はBUMP OF CHICKENの大ファンで、「私にとって」彼らの存在には大きな意味や価値がある。彼らが死んだら私は死にたくなる。だけど、BUMPを知らない人からしたら、彼らが生きていようが死んでいようが生活は何も変わらないし、何の意味も価値もない。BUMPの絶対的価値なんてない。

スティーブ・ジョブズが死んでもAppleは潰れてない。岩田聡が死んでも任天堂は潰れてない。こんな偉大な人が居なくなっても世界は変わらず回るのが現実だ。もちろん、彼らが居なければ今のようなAppleも任天堂もなかったかも、という観点では意味も価値もあるかもしれないけれど、そんなIFを考えたところで一生答えは出ない。彼らが居なかったら、もっと偉大な発明家が出てきていたかもしれないし。その可能性は誰にも否定できない。だから、意味とか価値とか考えるだけ無駄な気がする。

「私は貴方が生きていることに価値を感じている」とか「私にとって貴方は必要だ」とか「貴方が死んだら私が悲しい」とか、そういう主観的な発言ならまだ理解できるのだが、「人は誰しも~」という言い方はあまりに雑すぎるというか無責任じゃないかな。お前は世の中の人間全員見てからそれ言ってるのかよ、って思ってしまう。

生死に意味とか価値とか理由とか必要ある?

で、話を戻して、死にたい願望がさほど強くないこととこの考え方がどう関係するかといえば、「自分は死んだほうがいい」みたいな自己否定の思考を打ち消してくれるのだ。

そもそもが誰にも生きる価値なんてないんだから、自分が生きてる価値ないのも世界に必要じゃないのも当たり前だし、自分が死んだって別に世界は何も変わらないから「死んだほうがいい」なんてこともない。「生きていたほうがいい」というわけでもない。生きても死んでも何の影響もない。じゃあ勝手にくたばるまではこのまま生きておくか、みたいな感じ。

「人は誰しも生きる価値や理由がある」なんてことを言われると、「私が生きている価値や理由はなんだろう」と一生懸命何かを見出そうとしてしまう。でも結局そんなものはいつまでも見つからないままだから、「自分にはなにもないんだ」「死んだほうがいいんだ」という思考に走ってしまう。私はそうだった。

でも、動物が生きてる理由なんて「心臓が動いてるから」以外にないよ。それ以外は全部後付けでしかない。もちろん、どんな意味や理由を見出してもいいんだけどさ、その意味や理由がなくなったところで心臓が止まるわけじゃないし。

この考え方に至るにあたって影響を受けた曲たちをいくつか紹介してみる。ありすぎて全部は挙げられないけどとりあえず今思いついたものだけ。

『アンチノミー』 -amazarashi

意味を捨て 意志を取れ
生き延びて 生き延びて 息をするんだ

息をすることに意味は要らないんだと思える。自分がどうしたいかだけでいいじゃない。

『ジェヘナ』 -wotaku(feat.初音ミク)

「生きていたいよ」
なんでか分からないけど
「生きていたいよ」
DNAという聖書

「生きていたいよ」
なんの希望も無いけど
「生きていたいよ」
本能は赤く脈打つの
「生きていたいよ」
「生きてたくないよ」
本当に残念だけど僕らは生きるしかないんだ

「生きていたい」というのは身体が勝手に思っているだけで、「生きていたくない」という心と一致していないのは何も不思議なことじゃない。にしても、『DNAという聖書』ってすごい歌詞だなあ。それくらい抗えない存在なんだよな。「生きるしかない」という歌詞がこれほど絶望に満ち満ちている曲はあまりない気がする。

『モーターサイクル』 -BUMP OF CHICKEN

わざわざ終わらせなくていい どうせ自動で最期は来るでしょう
その時を考えても意味が無い 借りてきた答えしか出てこない

過去の自分がものすごく救われた曲。わかりやすく前を向ける曲というわけではないんだけど、「まあなんか全部どうでもいいけど、とりあえず惰性で息吸って吐いていれば明日は勝手に来るしそんなんでいいか」って思える。

『Sleep Walking Orchestra』 -BUMP OF CHICKEN

どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの
肺が吸い込んだ 続きの世界 何度でも吐いた 命の証

これもそう。体と心が一致していない。体が勝手に生きたがって、勝手に息吸って吐いてるだけ。

『ロストマン』 -BUMP OF CHICKEN

どんなふうに夜を過ごしても 昇る日は同じ

『窓の中から』 -BUMP OF CHICKEN

昨日と明日に毎日挟まれて
次から次の今日 強制で自動更新される

一個一個挙げてるとキリがないくらい、BUMPさんは、体が生きたがってるだけとか何しても勝手に明日は来るとかそういう感じの歌詞がすごく多い。


結局のところ、生きているのって自分がどうとかじゃなく、勝手に心臓が動いて勝手に日が昇って勝手に日が沈んでいるだけだから、そんなただの「現象」に意味とか価値とか理由とか考えても仕方なくない?ということです。この考え方をするようになってから、「自分は死んだほうがいい」とはあまり思わなくなった。だから、「自己否定による死にたい願望」はあまりない。


死ぬのは癪に障る

自分が死ぬ妄想

特に学生時代は、もう死んでやりたいと思うことがよくあった。死ぬならどうやって死のうかなと考えてみる。
すると、どんな行動をするときにも「行動した後のこと」を考える癖がある私は、当然のように「自分が死んだ後の世界」のことを考える。でも悲しいかな、自分が死んでも誰も悲しまないし誰も傷付かないし誰も後悔しないし誰にも迷惑がかからない。そんな光景しか見えない。

母は悲しんでくれるだろうけど、あくまで「自分の子どもだから」であって「私だから」ではない。母にとって私は「子ども」という以外の価値はない。あまりにも性格が違いすぎて本当に相性悪いから、仲は良いし家族として愛してはいるけど「もし家族じゃなかったら関わりたくないな」と私は思っている。(こういうこと考えると、じゃあ家族って何?という話もしたくなってくるけど、今回の本題ではないのでぐっと我慢……。)

社会のために死ぬくらいなら何もかも壊したい

私にとって「死んで楽になりたい」という逃避衝動は、基本的に、社会に適合できないから感じるもの。だけど、社会に適合できなくて苦しんで死ぬって、社会に殺されてるようなものというか、社会のために死んでるというか、それなのに社会には何の影響もないことがなんかめちゃくちゃ癪に障る。なんで私が社会のために犠牲にならなきゃいけないんだよ、そっちがこっちに合わせろよ的な気持ちになる。

そう思うと、死ぬくらいなら、どうせ失うものがないんだったら、人が死なない程度で周りに大迷惑かけるほうがいいなと思ってしまう。めちゃくちゃ物壊すとかめちゃくちゃ物盗むとかね。まあ妄想するだけで実際には絶対しないけど。あくまで「わざわざ死ぬくらいならそのほうがマシ」ってだけです。

私は梶井基次郎の小説『檸檬』がとても好きで、初めて読んだときはかなりぞっとした。自分の中にある破壊衝動を具現化されたような気分になったから。それと同時に、そうした破壊衝動は別に珍しいものじゃないのかと思えて、心が楽になった。遠い昔に仲間を見つけた。読書の良いところの一つ。

『爆弾魔』 -ヨルシカ

▶Re-Recording(私はこっちのほうが好き)

死んだ眼で爆弾片手に口を開く
さよならだ人類、みんな吹き飛んじまえ

この曲、檸檬と似てるなーと思っている。特にこのあたりとか。

死んだ目で爆弾片手に街を歩く
誰も見向きもしないんだ 爆弾を翳したとて

ものすごく破壊衝動に溢れた歌だけど、「吹き飛んじまえ」と言っているだけで実際に吹き飛ばしてはいないのがリアリティあるというか。
「誰も見向きもしない」爆弾というのは、何か実体があるわけじゃなくて、単なる破壊衝動のことなんじゃないかなと私は思った。まさに今私が考えているようなことを、家族も友人も職場の人もすれ違う街の人々も知らないわけだから。

ちなみに、私はこの曲に関しては再録のほうが圧倒的に好き。オリジナルのときから大好きだったけど、再録出てからさらに好きになった曲。

オリジナルのほうは「全部なくなっちゃえばいいのに」みたいな空気なのが、再録だともっと感情的で「全部消し飛ばしてやる」くらいの勢いを感じる。悲しみ、諦めだったのが、怒りに変わってるみたいな感じ。

『思想犯』 -ヨルシカ

これは破壊衝動とはちょっと違うけど、

他人に優しいあんたにこの心がわかるものか
人を呪うのが心地良い、だから詩を書いていた
朝の報道ニュースにいつか載ることが夢だった
その為に包丁を研いでる

他人に優しい世間にこの妬みがわかるものか
いつも誰かを殴れる機会を探してる

ビール瓶で殴る街路灯、投げるギターの折れる音、
戻らない後悔の全部が美しいって、
そういうのさぁ、僕だってわかるのに

「人を呪う」「包丁を研ぐ」「誰かを殴れる機会を探してる」
全部考えてるだけなんだよね。別に行動はしていない。
「戻らない後悔の全部が美しいって(中略)僕だってわかるのに」というのも「わかるのにできない」というもどかしさが伝わってくる。
これがなんとも切ないというか共感できるというか。

・・・

結局何が言いたいかというと、まあ表題のとおりで、生死の価値なんて誰にもないしそんなものは必要ない、ただ勝手に体が生きてるだけだからそこに意味なんていらない。で、ただ死ぬのは癪に障るから、死ぬくらいなら誰かに迷惑かけたい。だから意外と、死にたいとはあまり思わない。ってことです。

まとまりが悪いし、今回話した考え方は賛否が分かれると思うけど、私はこれが正解だとは決して思っていない。そもそも絶対的な正解なんてないし。でも私はこの考え方で結構楽になったので、誰かの参考になれば幸いです。やっぱり答えのないものをぐだぐだと考えるのは楽しいなー。

2025年1月8日 しろくま

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