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思考は物事を前進させない

コンピュータサイエンスの用語で、「Garbage in, garbage out」というものがある。日本語に直すと「ゴミを入れれば、ゴミが出てくる」という意味だ。

たとえばの話、友達同士の食事の席で「4人で割り勘にしようか」という話になって、伝票には「5,600円」と書かれていたとする。そこで誰かがスマホを取り出して、電卓機能を使って「5600÷4=」と計算しようとするが、画面をタップする指が少しだけズレて、隠れた手元に気づかないまま「5600÷5=」と入力してしまった。

この割り勘の本来の答えは、1,400円になるはずだ。それなのに、本人の気づかない入力ミスによって、画面上の計算結果は「1120」と表示されている。それで、お金を集めたあとに「あれ?」ということになる。(もしくは、数字に強い誰かが集金前に間違いに気づく)

あまりにも当たり前のことで、特に教訓に富むような話には見えないかもしれない。しかし、これはものすごく高性能なコンピュータで高度に複雑な処理を行っているときにも同じことが起こる場合があり、それは見過ごされ、思いがけない実害を社会に対して与える可能性がある。

どれほど複雑に見えるコンピュータシステムも、その基本は「入力→処理→出力」という流れでできている。つまり、何か考えるべき情報を外部から受け取って、それを内部で加工・処理して、結果を再び外部に渡してくれるということだ。冒頭の「Garbage in, garbage out」というのは、入力した内容に誤りが含まれていれば、どれほど賢いコンピュータが処理を行ったとしても、その出力は必ず誤ったものになるという事実を指摘している。

気象予報や医薬品の研究開発といった分野を考えてみれば、そこに素人には理解できないような高度な理論や手法が使われているであろうことはすぐに想像できる。ここで、専用のシステムに測定結果や計算用パラメータなどを入力しているオペレーターが何かうっかりミスを起こせば(例:紙の表に書かれたデータをキーボードで入力するときに一段分ズレて転記してしまう、画面上で操作するファイルを取り違える)、ちょうど電卓の誤操作と同じことが起こる。

そして、システムの内容が高度に複雑になれば、それは食事会における割り勘の話のように、人の目によって容易に気づくことはできなくなる。

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人間の精神というのは高度な情報処理システムであるけど、「入力→処理→出力」という流れが存在する点では、コンピュータと何も変わらない。

最初に来るのは五感だ。何かを目で見たり、耳で人の話を聞いたりして、外界の情報を入力する。そして「考える」ということが処理に当たる。最後に出力というものがあって、これは頭の中に結論が出るということもそうだし、何か具体的な行動を起こすということも出力の形だ。仕事を片付けるときであっても、人間関係をうまくやろうとしているときでも、やはりこのような流れが個人というシステムの中に存在している。

そこで、冒頭の格言である「Garbage in, garbage out」に戻る。受け取った情報が誤っていれば、どれほどしっかり考えたとしても、その結論は誤ったものになる。これが仕事上で書類の数字を見間違えたとか、友人とのやりとりで伝言ゲーム的に発言がねじ曲がって伝わってしまったという話であれば、それが不適切な判断や行動に繋がるというのは当たり前の話で、さきほど出した電卓の例のように、特に重要な学びを得られるような話ではない。

しかし、この法則についてよく考えてみると、もっと現実の生き方の改善(あるいは悪化)に関わってきそうな、ある重要な指摘に行き着く。それは「行動せずに熟考することにはあまり意味がない」ということだ。

人が「よく考える」というとき、その結論を生み出すための素材は、あくまで外界から得られた情報にある。仮に目の前の課題が極端に難しいものであれば、時間をかけてしっかり考えるというのは妥当な判断で、この処理時間というのは飛ばしてはいけないものでもある。しかし、何も具体的な行動を起こしていない状態で、つまり外界から新たな情報が入ってこない状態で、「考える」ということだけをひたすら続けた場合はどうだろう。

そこで新しい結論が出力されるということは、原理的に起こらないはずだ。電卓に同じ入力をすれば、同じ出力しか返ってこない。そうでなければおかしい。これが人間の場合、気分がよかったり体調が悪かったりという身体的なコンディションによって多少の誤差は起こるが、それでも重要な原則は変わらない。入力内容から示唆されないまったく新たなものが、急に出力内容に現れてくることはない。

「ひらめき」や「創造性」と呼ばれるものは、コンピュータにはできなくて人間にだけできる、例外的な能力なのだろうか? そんなことはない。その実態は「日常生活の中で別々に見聞きしていた無数の情報が、あるとき思いがけぬ組み合わせで、有益な形で結びついた」ということだ。処理の流れが無意識的で見えにくいというだけで、やはり入力が出力を規定しており、無から有が生み出されているわけではない。

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「考える」ということ単体で前進が起こることは決してない。重要なのは入力内容であり、人間というシステムにとっての「新しい情報を入力する」とは、実際に手を動かして物事を進めてみたり、人と会話してみたりして、その反応を見聞きすることを指す。

「イラストレーターになるのが将来の夢だ」という人がいたとしよう。実際に何枚も絵を描いてみれば、描くという手応えによって、自分の技術レベルや気質についての新しい情報が得られる。さらに、そこで描いた絵をSNSにアップしてみれば、世間の人々がそれをどう評価するかという反応も得られる。これも新しい情報であり、「本当にイラストレーターになれるだろうか」という悩みに対して、考えるというプロセスは内的に前進しているし、スキルや活動実績といった外部に表れる面でも前進は起こっている。

しかし、この将来の夢に対して手を動かし始めるのではなく、ただ頭の中で「なれるだろうか」という言葉を反芻するだけなら、それは「作品の実績を積み重ねる段階にはまだ届いていないね」というだけではない。実際には、それは考えるというプロセス自体が前進していない、つまり感情的なぐるぐるとして思い悩んでいるだけで実は考えていない、と言わざるを得ないことになる。

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「行動あるのみ」というのは、単なる精神論的なスローガンではない。行動によって情報を入手しない限り、私たちは「考える」ということができないのだ。

これには少しだけ例外があって、もし目の前の問題が「深い悩みや傷つきを消化して乗り越える」という心理的な過程なのであれば、たぶん「時間をかける」ということそのものにも意味がある。今回取り上げたような指摘は、具体的で実際的な事柄を進めようとしている場合に限る。

それでも、ほとんどの問題は具体的で実際的なものとして存在する。「人間関係に悩んでいる」と言うとき、その相手である人間は目の前にいるではないか。

私たちは相手のことがわからない、どう関わればいいのかわからないといったことに悩む。そうであれば、私たちは頭の中だけで考えようとするのではなく、そこから情報を引き出さなければならない。つまり、関わらなければならない。それがまだうまくいかなかったとしても。

人間関係には「言葉で表現しなければちゃんと伝わらない」といった重要な視点があるし、必ずしも合理的とは言えないようなお互いの微妙な感情とうまく付き合っていく必要もある。しかし、これらのことは今回の論点とは少し異なる。今ここで注目しているのは、関わりという場面による入力がなければ「頭で客観的に、論理的に理解する」ということすら起こらないという事実についてだ。

人と関わるということについて言えば、それは誰にとっても難しいし、ひどく苦労させられるものだ。その点は仕方がない。ときに傷ついたり、恥ずかしい思いをしたりもするので、口で言うほど簡単ではないというのももちろんだ。

それを踏まえた上で、強く意識しておかなければならないことがある。それは「考える」だけでこの世の物事が前進したり解決したりすることは決してない、ということだ。実際的な仕事の進捗についても、純粋に理屈を組み立てる場合でも。そして何よりも、私たちが長い年月をかけて人間的に成長するということに関しても、この法則は当てはまる。

外的な行動がなければ、内的な成長が起こることはないだろう。これが結論になる。私たちは部屋を出て、手と足を動かし、他者と関わり始めなければならない。

(essay 6 - 2024.9.21)

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