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「お城と歴史を語る」

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ゆうさいが大好きなお城や人物などの歴史をまとめてご紹介しています。 また主宰するお城や歴史に関するイベントなどについての語りも掲載してます。
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#旅

「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(後編)

「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(後編)

こんばんは、ゆうさいです。

今回が広島城の後編です。
まだ前回の「中編」をお読みでなければ、事前にこちらを読んでいただいてから「後編」へお進みください。

1619年、福島氏が転封となった入れ替わりで、広島城には外様の雄藩、紀州浅野家が42万6千石で移封されました。
この時の城主は、浅野長晟(あさのながあきら)さん。徳川家康さんの女婿です。
広島城は、以後明治維新までの約250年間この浅野家12

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「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(中編)

「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(中編)

こんばんは、ゆうさいです。
今回は、広島城の中編です。

前編をまだ読まれていない方は、ぜひ事前にこちらを読んでから後編をお楽しみください。

1591年、ついに広島城天守が完成し、1月には輝元さんが入城します。

家臣団も続々と割り当てられた土地に屋敷を構え、商人も呼び寄せていたので城下町はみるみるうちに形成されていきました。

その翌年の4月には、「文禄の役」を指揮するために名護屋城へ向かう途

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「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(前編)

「国宝だったのに!」と叫びたい、広島城をご紹介(前編)

広島城は、広島市を流れる太田川の河口に発達した中州に築かれた中国山陽路最大の城郭でした。
そしてあまり知られてはいませんが、広島城は1931年に天守閣が一度「国宝」にも指定されているんです。

そう、B29により原爆を投下されるまでは。

この事実を多くの人にも知ってほしいという想いを込めて、今回は広島城の叫びと歴史をご紹介します。

この城を築いたのは、最盛期に中国・四国・九州にまで版図を広げた

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「信長の野望」って、子供の教育にとって素晴らしいゲームだと思う。

「信長の野望」って、子供の教育にとって素晴らしいゲームだと思う。

こんばんは、ゆうさいです。

仕事でたまたま取引先の方と話をしていた際に、同じ歴史好きだということがわかりかなり話が盛り上がった。

その盛り上がりのきっかけというのが、皆さんお馴染みの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」。
私の場合は、初代「信長の野望」からスタートして、「武将風雲禄」というシリーズまでどっぷりはまってやってました。

今回は、この「信長の野望」というゲームが、どれだけ素晴ら

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浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(後編)

浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(後編)

こんにちは、ゆうさいです。

今回がいよいよ浜田城の最終章(後編)です。
中編をまだお読みではない方は、こちらを先にお読みください。

仙石騒動でごった返した浜田藩ですが、またまた大きな事件を起こしてしまいます。

後年に「竹島事件(たけしまじけん)」と呼ばれることになる密貿易事件です。

借金に苦しむ藩財政を立て直すため、藩の御用商人だった廻船問屋の会津屋八右衛門さんが、李氏朝鮮との密貿易を提案

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浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(中編)

浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(中編)

こんにちは、ゆうさいです。

今回も前編に引き続き、浜田城の歴史をご紹介ます。
前編をまだ読まれていない方は、ぜひこちらからまずは前編を読んでみてください。

古田家が跡継ぎ不在により改易となると、浜田城には1649年に播磨国の山崎藩から松平康映(まつだいらやすてる)さんが入城します。

康映さんの後もこの松平氏が続きますが、3代藩主の康員(やすかず)さんが病弱の上、養子だった康房(やすふさ)さん

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浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(前編)

浜田藩248年の歴史がつまった浜田城をご紹介(前編)

浜田城は、島根県浜田市北側の松原湾近くの、海抜70mほどの山上にあります。

この城は、1619年に古田重治(ふるたしげはる)さんが、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)さんの和歌山転封にともなって、伊勢松坂藩より5万4000石に国替えとなった後、約9ヶ月という期間をかけて築城したお城です。

浜田城完成した3年後の1626年にスペインの宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコは、この浜田の地を「非常によい

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丸岡城の「人柱 お静」伝説とは

丸岡城の「人柱 お静」伝説とは

こんいちは、ゆうさいです。

前回までの丸岡城の歴史の番外編として、伝説もひとつご紹介したいと思います。

「人柱 お静 伝説」
※鬼滅の柱の物語ではありません。

1576年、越前国をおさめていた織田家臣、柴田勝家(しばたかついえ)さんの指示で、その甥の柴田勝豊(しばたかつとよ)さんが丸岡城を築こうとしていました。

ところが、天守の石垣を何度積んでも積んでも崩れてしまい、一向に築城が進み

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「北陸唯一の現存天守」をもつ丸岡城とをご紹介(後編)

「北陸唯一の現存天守」をもつ丸岡城とをご紹介(後編)

こんばんは、ゆうさいです。

今回は前回の投稿の後編です。
まだ前編を読まれていない方は、前編を読んでからのほうがわかりやすいので、まずはこちらをお読みください。

~前回からのつづき~

丸岡城代となっていた青山宗勝さんは、主君として仕えた丹羽長秀さんが死去すると、そのまま豊臣秀吉さんの家臣となり越前に2万石が与えられました。

さらに九州平定への従軍や伏見城の普請にも功績を挙げ、遂には越前丸岡

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歯の治療はお早めに。

歯の治療はお早めに。

こんばんは、ゆうさいです。

実は先週から左上の歯が痛いんです。
痛みの種類は、ズキズキというよりも痛痒いような鈍い疼き…。

以前、反対の右側の奥歯に根尖病巣(歯の根っこに炎症がおきる病気)ができていて治療を行ったことがあり、その時も同じような痛みだったのを思い出しました。

この病気の原因は、以前おこなった根尖治療(歯の根っこの治療)が不十分だったことによる影響が多いようです。
痛みの種類が同

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掛川城の歴史をご紹介(後編)

掛川城の歴史をご紹介(後編)

今回は、前回投稿した掛川城の後編をお届けします。

まだ前編を見られていない方は、できましたら下記よりご覧いただいた上でお読みいただければ幸いです。

掛川城は徳川の大軍に囲まれながらも、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)さんは掛川城で氏真さんを守り懸命に戦います。

この攻防戦は5ヶ月にもわたり行われましたが多勢に無勢。
ついに主君である氏真さんの身の保全を条件に徳川軍と和議が結ばれ、1

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掛川城の歴史をご紹介(前編)

掛川城の歴史をご紹介(前編)

今回は、新幹線からもはっきりその存在を確認できるお城、掛川城をご紹介したいと思います。

この掛川城、築城は1473年頃で、駿河国守護の今川義忠(いまがわよしただ)さんが遠江進出の足掛かりとして、重臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)さんに築かせたのがはじまりといわれています。

でもこの時の城は、今は「掛川古城」と呼ばれていて、現在ある掛川城の北東約500mの位置にありました。

現在

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波乱万丈、老中 水野忠邦さんの本音の生き方に迫る!?【前編】

波乱万丈、老中 水野忠邦さんの本音の生き方に迫る!?【前編】

以前の投稿でもチラッとご紹介した、水野忠邦(みずのただくに)さんを今回は2夜連続で特集したいと思います。

歴史の教科書では、江戸幕府の老中として「天保の改革」を実行した有名人。
しかし実のところは、なかなかキャラ濃い目の、波乱万丈な人生を歩んだ面白い人物なんです。

唐津藩の御曹司水野忠邦さんは、1794年に肥前唐津藩主の次男として生まれました。
お兄ちゃんが早くに亡くなったため、お父さんである

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