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山岡鉄次物語 父母編2-2
〈 若き日の父2〉金属供出と配給制度
☆統制経済について続ける。
政府は戦局の悪化と物資不足、特に武器生産に必要な金属を補う為に、昭和13年鉄鋼配給規則を制定し金属類の回収を呼び掛けた。
昭和14年からは、マンホールの蓋・鉄柵・火鉢等の鉄製品の回収が役所や職場や国防婦人会などの手で実施された。
この頃は法的根拠の無い任意の供出であった。
国家総動員法に基づく金属類回収令が昭和16年に公布施行され、だれかれの区別なく根こそぎ回収が進められるようになった。
昭和17年、各自治体が資源特別回収実施要綱を定めた事で、全国的に大々的な回収が始まった。
家庭の鍋釜や箪笥の取っ手、店の看板まで回収し、全国の役所や学校の暖房器機、二宮尊徳の銅像まで回収対象となった。
「まだ出し足らぬ家庭鉱」のスローガンのもと昭和18年には煙突・窓格子・花器・ 仏具・ネクタイピン・時計の鎖・指輪など、あらゆる金属製品が回収された。
数多くのお寺の梵鐘も供出されたが、鐘楼は建物の構造上、重量のあるものを吊しておく必要から、石やコンクリート等で作られた代替梵鐘を吊り下げた。
鉄道のレールも対象となり、複線の鉄道路線はレールが撤去されて単線となった。
物資の統制は拡大していき、太平洋戦争が始まる昭和16年までには、食糧や生活必需品など全て統制下におかれ、生活物資の配給制が行われた。
政府は昭和13年に、公定価格を暫時全ての商品に広げて行き、昭和14年には賃金統制令や価格統制令を発した。
物価・賃金・家賃などまで凍結する法令が実施されたのだ。
労働力不足を補うために、国民徴用令が発せられたのもこの年であった。
生活必需品の配給システムは切符配給制だった。
米を例にとると、一般の成人男子の配給量は1日2合3勺(350g)で、この頃の働く男子は1日4合ぐらい食べていたので、約半分では足りるはずがなく、ヤミ米を買うか雑穀で補うしかなかった。
砂糖は1人当たり月240~300gが配給されていた。
切符は市町村長から隣保組の班長を経て世帯主に交付された。
こうして、あらゆる生活必需品が配給統制されるようになっていき、ほとんどの商工業者は配給統制の進展に伴い廃業するしかなかった。
人々の服装、姿かたちは、男子は国民服に戦闘帽でゲートル(脚半)、女子はモンペ姿で、髪のパーマネントは禁止だった。
男子の国民服は、昭和15年に法制化した国民服令による。物資が統制された戦争時代に国民生活の合理化・簡素化を目的にしたものだ。
季節の区別なく着ることができ、改まった席では国民服儀礼章を着用して礼装とすることができた。全国の学生や生徒の共通通学服としても指定され、男子の間で広く採用された。戦時の窮乏生活での繊維材料の資源節約と戦意高揚に効果を発揮した。
国民服を軍服の代用として使用することが認められた。沖縄戦では、市民や学徒たちが防衛隊員として正規軍指導の下で国民服で戦闘に参加している。
しかし国民服が軍服によく似ていたため、沖縄戦や樺太の戦いにおいて、米軍やソ連軍が国民服を着用した非戦闘員を射殺することが多発した。
女子のもんぺは、太平洋戦争中に厚生省がモンペ普及運動を行い奨励した。和服における袴の形状をした作業着の一種である。当時の女性は着物を改造してもんぺを作っていた。
戦局悪化に伴い空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、昭和17年婦人標準服として腰丈の着物と共に半ば強制された。もんぺは現在でも動きやすい作業着として販売されている。
国家に強制されたもんぺは、劣悪な国民の戦時生活を現すものの代名詞となっていた。
歌手の淡谷のり子は、戦地で慰問の際にもんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない、化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服と言い、ステージ衣装で出演し、当局から睨まれた。
国防婦人会はもんぺ部隊と云われたことがあった。
当時、国策に添わない者は、非国民として指弾される時代だった。