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【東ゆうの面影を求めて】アニメ映画『化け猫あんずちゃん』感想

東ゆうの魂を持つ者

私の名は、ツユモ。
ときどきアニメ映画の感想を書くことが趣味の生き物だ。

2024年、今年はアニメ映画の公開本数が多い大豊作の年である。
『ウマ娘』『ルックバック』など数々の名作が公開され、下半期には『魔法少女まどかマギカ』といった大作も控えるなかで、私の心に最も深い爪痕を残したのが、『トラペジウム』という作品の主人公・東ゆうである。

彼女の人物造形は、とても私などの表現力では一言で言い表せない奥深さを持っているのだが、強いて言えば「行動力の化身」「狂気」「狡猾」「邪智暴虐」などのワードを当てはめるのが適切だろうか。悪い言葉が並んではいるものの、それは彼女が過去に経験した深い挫折と絶望、自己肯定感の低さ、そして夢にかける大きな情熱から来る行動であり、しかも彼女がしてきた行動によって確かに救われた人もいるというのがこの作品の主題で…

などと語っているとキリがなくなるが、まあとにかくまとめると、100年に一人の逸材ともいうべき「面白い女」なのである。

そんな東ゆうの魂を感じる主人公など、もはやそうそう現れないだろうと思いながらBlu-rayの発売を心待ちにしていたところ、ある日ふと「東ゆう度の高いキャラクターが出てくる映画がある」という情報を目にして、私は裸足で家を飛び出した。
それが今回取り上げるアニメ映画『化け猫あんずちゃん』の主人公・かりんちゃんである。

鑑賞して実際どうだったかというと、彼女は小学5年生という若さにして、自分の可愛さを最大限に利用して周囲の大人から金を巻き上げたり、同年代の男子を都合のいい手駒とする狡猾さを持っており、苛ついたときには路上に駐輪されている自転車を蹴り倒すという、噂の通り東ゆうと同じ魂の色を持っている人物で大満足であった。(テネリタスキックの使い手がこんなところにもおったとは…!) 
初登場の第一声が「舌打ち」というまさかすぎる共通点もあり、『トラペジウム』に脳を灼かれた人間にとってはそれだけで観に行ってよかったと思うほど魅力的な主人公だった。

かりんちゃんという魔性の女

あまり『トラペジウム』の話ばかりしていると狂人だと思われてしまうのでここらで切り上げて本作の話題に移るが、特に素晴らしいと感じたのは「キャラクターのヘイトコントロールの巧さ」である。
主人公のかりんちゃんは、「死ね」「バカ」などの言葉を平気で使い、挙げ句の果てには、喧嘩したあんずちゃんに対する仕返しとして、同年代の男子を唆して自転車を川に捨てたことまであるなど、冷静に思い返すと相当にヤバい女である。
とはいえ、それだけの悪事をしていても怒る気になれないような「可哀想さ」「切なさ」がかりんちゃんという人間からは終始感じられた。優しかった母親は3年前に亡くなり、飲んだくれの父親は借金まみれで借金取りに追われており、挙句親や子供にまで金をたかるクズ人間で、こんな環境で性格が歪まない方がおかしいレベルである。

あと個人的に印象に残っているのは、父親に会うため、そして母親のお墓参りのために東京に行った先で出会う、ボーイフレンド的なポジションの男の子とのカフェでのシーンである。かりんちゃん側は、「昔結婚するって約束したんだから、今すぐ二人でどこかに行こうよ」などと浮かれたことを言うのだが、エリートっぽい男の子の方は終始スマホをいじって興味なさそうな態度で「受験が終わったらでいいでしょ」と至極真っ当なことを言う。
正直、物語としては全然無くても成立するレベルの短い場面なのだが、私立の中学に行くために塾に通う同年代の都会の男の子との圧倒的な経済格差や、両親から愛を受けられていないかりんちゃんの愛情に対する飢え、そして周囲に理解者がいない孤独を強調する場面として、心にズッシリときてしまった。かりんちゃん、そんな二人きりの食事でずっとスマホいじってる男なんか辞めときなよ…

あと細かいポイントだが、このカフェのシーンや、田舎町で同年代の男の子二人組にクリームソーダをおごる場面など、お金にがめついようでいて、意外と「自分が誘った場では自分が金を出す」と言う仁義がしっかりしたところも好感が持てる。(いや、もしかするとこれも相手より精神的優位に立つための、かりんちゃんの処世術なのかもしれないが…)

また、「小学5年生」という年齢設定も絶妙で、彼女がおそらく中学生以上の年齢だったらそのワガママっぷりに辟易してしまう部分もあった気がするが、終盤の母親があの世に連れ戻されそうになる場面など、年相応の幼さを見せるシーンでの普段の憎らしさとのギャップがうまく効いていて、何度も目頭が熱くなってしまった。

ちなみにかりんちゃんは作中で田舎町の同年代の男子たちに「天使」と称されるほど美形なのだが、その父親が見た目は良いが甲斐性のないヤンキーっぽいことになんだか妙なリアリティを感じる…

あんずちゃんとの擬似親子関係

先ほどからかりんちゃんのことを主人公扱いしてしまっているが、実は本作にはもう一人、「あんずちゃん」という37歳の化け猫の主人公が登場する。

完全に余談だが、猫モチーフのずんぐりむっくりした2〜3頭身の体型の人外キャラが作品の顔であり、そのキャラクター名が作品タイトルにもなっているが、物語の実質的な主人公は別の「人間の子供」でその成長と友情が描かれる…と書くと『ドラえもん』ともかなり共通点の多い作品だなと思ったりした。

あんずちゃんは映画鑑賞前の予告で見た時は、かりんちゃんのお金をパチンコで溶かしてしまう場面や、人前で屁をこく場面などが切り取られており、「嫌なタイプのクズさだなあ…」と思ってかなり個人的な好感度は低かったのだが、鑑賞してみると一貫してかりんちゃんに対する態度が慈愛に満ちていて、作品の鑑賞前後で最も印象が変わったキャラだった。

後半の鬼たちとのカーチェイスや戦闘シーンでかりんちゃん親子を守るためにボロボロになって必死で行動するところはもちろん、作品前半でも一見面倒くさがりのように見えて、東京に行くために家を勝手に出て行ったかりんちゃんを探して遅くまで歩き回ったり、「要らない」とふて寝するかりんちゃんの部屋に黙ってスイカを置いていったり、貧乏神を追い払おうとするなど、「そりゃかりんちゃんも懐くわ」と思わせられるさりげない良さにあふれた猫である。

ここから思いっきりネタバレなので未見の方はブラウザバック推奨だが、一見ほのぼのした物語に見える本作の根底にあるのは、「親の愛情に飢えた少女・かりんちゃんが、田舎での生活や都会での騒動の中で、本当の愛情に触れて自分の"親"を選び取る話」だと考えている。

突然話が変わるが、今作には「相手に水をかける」という行為が三度登場する。一度目は、かりんちゃんの父親である哲也が、父親である「おしょーさん」に金を借りようとして、「出てけ!」と麦茶をかけられる作品序盤のシーンである。二度目は、かりんちゃんが両親のいる東京に行こうと思い立つ直前、海岸で楽しそうに水をかけて遊ぶ親子の姿を見るシーンである。感情の方向性としては真逆だが、いずれも親から子に対する感情の発露として「水をかける」行為を行なっていることが伺える。
三度目にこの行為が出てくるのが、その後一人で東京に向かおうとしたかりんちゃんが、その目的は果たせずになんやかんやで蛙の掘り当てた温泉に浸かる場面である。かりんちゃんを探し回っていたあんずちゃんは、温泉で見つけたかりんちゃんのことを詰りながら、パチャパチャとお湯をかける。メタ的に言えばある意味、この時点で二人は擬似的な親子関係にあることが暗に示されているようだが、かりんちゃんは水をかけてくるあんずちゃんのことを鬱陶しい存在としか思わず無視してしまう。さらに、母親との別れの場面では「生きていても楽しいことなんかひとつもない」と叫んでいることからも、かりんちゃんはこれまで自分を気にかけてくれる存在に気づけていなかったことが伺える。

しかし、カッコ悪くても自分のために戦ってくれたあんずちゃんやその他妖怪たちの存在に触れた経験が彼女の心をいつの間にか変えたのだろう。
最後に田舎を去る場面で、電車に乗ってきた「海岸ではしゃいでいたあの親子」の姿を見て、血縁による繋がりが無くても親のように気にかけてくれていた存在の尊さを初めて自覚し、実の父親ではなくあんずちゃんとともに生きる選択をしたシーンは、名場面としか言いようがない。

全体的にほのぼのふんわりした雰囲気の作品ではあるので、どうせ最後も「哲也は実はかりんちゃんのために東京で必死で働いていて、母親の命日に帰って来られないのもやむにやまれぬ事情があった…」的な感じで、かりんちゃんと哲也の親子愛にテーマが収束し、あんずちゃん達との交流も一夏の思い出として田舎を爽やかに去るオチになるのかなと思っていたので、この締め方は意外性と納得感が両立していて、非常に痛快だった。
その哲也にしても、結局帰ってきてから「母親の命日までに戻ってこられなくてごめん」のような謝罪の台詞すらなく最後までクズではあったものの、文字通り「半殺し」にされて怪我だらけになっていて、こういった点でも悪が野放しにならないヘイトコントロールの巧さが伺えた。

ちなみに考えすぎかもしれないが、かりんちゃんが父親のことを終始「哲也」と下の名前で呼んでいたのも、単なる思春期の女の子の心情を表現したキャラ付けではなく、血は繋がっていようとも「一緒にいるべき親ではない」ということを示す伏線だったのかもしれない。

これも余談だが、そういえばこの作品のラストシーンでは、かりんちゃんがイカにスミをかけられるという場面で終わるが、ここも「水をかける」に通じる表現だなと感じた。かりんちゃんが自分の意思で選び取った田舎でのあんずちゃんたちとの暮らしが、ここからさらに愛に溢れたものになる…という希望の示唆なのかもしれない。

ここまで拙い考察も交えて色々語ってきたが、日仏合作ということもあってか、作画やキャラデザにいわゆる日本のイマドキのアニメ感がないことや、妖怪たちのビジュアルが割と気持ち悪いことなど、ちょいちょい個人的な不満点もあるものの、ファミリー映画としてかなり満足度が高く、老若男女におすすめできる良い作品だった。
ただ、一点だけどうしても引っかかるのが、「かりんちゃんの母親がこれからどうなるのか」という点である。割と地獄での拷問描写が生々しかったこともあり、あの世から現世に逃亡するという大罪を犯し、閻魔大王に目をつけられた母親があの大騒動のあとどれだけ酷い目にあってしまうのか心配でならない。せめて閻魔大王がかりんちゃん親子の愛情に胸を打たれるような描写が一瞬でもあれば、情状酌量の余地があるのかなと期待できたのだが…
まあ、逆立ちでバスに乗り込むほどの逞しさがあれば、地獄でもなんとかやっていけるのかな…とも思いつつ、エンドロールなどで母親の元気な姿を見せてほしかったというのが一番心残りのポイントである。
もし原作内でこの続きが描かれているなどの情報があれば、ぜひ教えて欲しい…!!

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