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アニメ映画『かがみの孤城』のいじめっ子「真田さん」に想いを馳せる感想記事

2023年の最初の記事は、本屋大賞も受賞した話題作・辻村深月氏の小説を元にしたアニメ映画『かがみの孤城』から始めたいと思う。

まず凄く浅い感想から入ってしまうが、この作品、タイトルが良い…!

冒頭3文字の「かがみ」というワードは、今作の舞台が鏡の中の世界であることを示すとともに、登場人物たちが自分自身の心と向き合う物語であることも表している。
本作は、いじめ被害に悩み不登校になってしまった女子中学生「こころ」が、自室の鏡と通じる不思議なお城に迷い込み、そこで出会った同じく不登校の男女6人と交流を深めていくというシナリオだ。
物語の中では明示こそされないものの、鏡の中に現れるその他の6人はどこか「こころ」のペルソナの一部と近しい部分を持っている。分かりやすいところで言うと、こころは鏡の世界で、色黒のイケメン少年リオンと会うたびにわかりやすく乙女な表情を見せるが、これはまさしく、異性に惚れやすいコメディーキャラの「ウレシノ」と共通する側面と言えるだろう。
「こころ」の引っ込み思案で物静かなところがさらに強調されたのが「フウカ」であるし、本当は学校に行きたくて誰かに助けを求める姿は「マサムネ」とも重なる。
そんな人々を映し出す「鏡」だが、あえて平仮名で「かがみ」と表現されることで成長途上にある子供たちの幼さや、そしてそれを包み込む世界の優しさをほのかに感じさせる字面になっているのが素晴らしい。

続く「孤城」というワードからは、「お城」という童話的でメルヘンな世界観を感じさせつつも、「孤」の文字通り人間の抱える孤独さ・寂しさをテーマにしていることも仄めかす奥深さがある。
そもそも「お城」という言葉から連想される風景として、「童話の中でお姫様が住むような豪華絢爛な大豪邸」と、「他人から攻め込まれないように築いた屈強な防衛設備」という二つの相反するイメージを人々は共通認識として抱いているが、本作の内容にこれ以上ないくらい適した絶妙なワードチョイスだったと思う。

さてそんな本作だが、内容としては、数年前に公開された実写映画の『十二人の死にたい子どもたち』や、たまたま最近鑑賞した映画である『すみっコぐらし』と近しいものを感じる部分が多かった。
人見知り、恥ずかしがり屋、余りもの、自分が何者か分からない… そんなそれぞれ異なる人間としての「欠点」を抱えつつも、それを一つの「個性」として昇華し、同じく欠点を抱える者たちとともに、日々を不器用ながらも一生懸命に生きていく… そんな物語が時代のトレンドになりつつある機運を感じるのは私だけだろうか。

完全に余談だが、スーパー戦隊シリーズの最新作である『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』もこのカテゴリの作品に属すると個人的には思っている。
人の気持ちがわからず正論ばかり主張するせいで幼少期から孤立してきたレッドをはじめ、中卒で生まれてから一度も働いたことがないブルー、盗作疑いをかけられ失墜した漫画家のイエロー、指名手配犯のブラック、うだつのあがらないサラリーマンのピンクなど、この作品のキャラクターたちは、社会にうまく馴染めない者や、世間から後ろ指を刺されるような立場の者たちばかりである。(超面白いので未見の方はぜひアマプラで見てくれ…!)

日本で生まれる子供たちが最初に見るドラマといっても過言ではないスーパー戦隊ですら今やこういった作風なのだから、日本全体として「輝くスーパースターのキラキラした姿」などではなく、「人間の弱さ」を見たい or 描きたいという需要が高まっていると言えるだろう。
(社会不適合すぎる主人公として話題になった『ぼっち・ざ・ろっく』もこの系統の作品かもしれない)

脱線しまくったが、このように近年、社会的に弱い立場にある人間たちが互いに寄り添い合って一つの奇妙な連帯感を形成していく作品が増加しつつあるが、その中でも段違いに弱者に向けた「優しさ」を感じさせたのが本作、『かがみの孤城』である。

いじめ問題を語るとき、「いじめられる側にも問題がある」という主張はよく見かけるもので、一方的に「いじめる側=悪」と捉えてしまうのではなく、双方の視点に立って物事を考えてみよう、という論調が現代的な考え方の一つとして存在するが、今作はそんな所謂「いじめる側の論理」に耳を一切貸さない姿勢を貫いている。

その姿勢は、主人公「こころ」をいじめ、学校に行けなくしたキャラクターとして登場する「真田さん」の描かれ方に非常に反映されている。

▲殴りたい、この笑顔。

百聞は一見にしかず。
上のキャプチャ画像からも伝わる通り、このキャラクター、令和に入ってここまで分かりやすいタイプのいじめっ子が見られるとは…というレベルのカーストクソ高&性悪女である。
「バカ」「死ね」など直接的な暴言を吐くのは序の口で、「あいつが私の彼氏を誘惑した」など根も葉もない噂を周囲に広めたり、外面だけは良くしておきながら裏で教師に暴言を吐きまくったり、主人公の家まで押しかけてガラス戸を叩きまくったりと、もはやリアリティを感じられないレベルの性格の悪さを発揮するヤバイ女である。

しかし一方で、なぜここまでの行動をするのか、その動機や真意は作中では最後まで語られることはない。
物語中盤、「こころ」が久しぶりに登校した際に、「真田さん」の方から「会って話がしたい」的な置き手紙を下駄箱にしてあり、「彼氏とは別れた」的な情報が断片的には拾えるものの、結局すべて主人公の「こいつは絶対に反省していない!」という心の中の断定によって決めつけられ、「真田さん」という人間がこの作品内で掘り下げられることは一切ない。
「こころ」の担任の若い男性教師が、「一度、真田さんと会って二人で話してみたらどうだ」と提案するくだりも一応あったのだが、物語上では「真田さん」という女の裏の顔に気づけないバカな男のアドバイスとして処理され、「こころ」の母親からその提案は一瞬で切り捨てられてしまう。

「こころ」のクラスメートでいうと、「こころ」のほぼ唯一の友達でありながらも、真田さんによって引き剥がされ、疎遠になってしまった「東条萌」というキャラクターが出てくる。
こころと萌は、物語終盤にすれ違いを乗り越えて二人で対話するのだが、その会話の中でも、「真田さん」という人物は「恋愛とか、目の前のことしか考えずに生きているバカ」と評され、徹底的に我々とはわかりあえない存在として描かれているのが印象的だった。

鏡の中の孤城に現れる7人の子供たちは、皆共通して何かしら心に傷を負っており、叶えたい願いがある。
例えばリオンは幼い頃に仲の良かった姉の死を引きずっているというキャラクターだったが、「姉が病死した」というどうしようもない理不尽な悲劇と、「真田さんによっていじめを受けた」という人間関係のいざこざが、この作品の中ではほぼ同列に語られる。もはや「いじめっ子」というものは、対話可能な人間というよりも「理不尽」「災害」といった、概念に近いものになっているのだ。

もちろんいじめっ子を擁護するつもりは毛頭無いし、「こころ」と同じように学校に行けず、生きづらさを感じる子供たちに希望を与える一種のセラピー的な意味合いとして、この作品は非常に素晴らしいと感じる。
作品内で大切なこととして強調される「嫌なことには嫌だと主張すること」は鬱の予防に最適だし、最後に「こころ」と「真田さん」のクラスを離すようにした喜多嶋先生の計らいからは、「嫌な人には関わらないのが一番」という非常に現実的かつ具体的な解決方法が提示されている。
なんなら「学校にすら別に行く必要はない」という踏み込んだ提案まで出しているが、今まさに不登校で悩む子供たちにとってこれほど心強く、「優しい」物語は他にないかもしれない。

一方で、世の中の多くの人間が悩んでいる「生きづらさ」は、自分が一方的に被害を受ける恐怖だけでなく、加害者側にふと回ってしまう恐怖によっても成り立っているというのが難しいところである。
特にコミュニケーションが苦手な人間なら誰しも、そんなつもりはなかったのに相手を怒らせてしまった、泣かせてしまったという経験が多くあるはずだが、相手の気持ちを慮ることができず平気で人を傷つけてしまう「真田さん」という人間もある意味では、喜多嶋先生が見てあげるべき(=救われるべき)子供たちの一人だったのではないだろうか

「こころ」は最後、願いを叶えてくれる鍵を見つけた際に、鏡の中で出会った他6人の記憶の断片を見るが、できればここで「真田さん」の記憶も見てほしかったと思ってしまう。もっと言うと、土砂降りの中、河原で「こころ」と「真田さん」が本音をぶつけ合って殴り合うシーンがあったらよかったのに、とさえ思う。

別に私が「真田さん」のキャラデザが好きだから肩入れしているとかではなく、「いじめは絶対的にいじめる側が悪い」「不登校の子供を追い詰めるのはよくない」という主張はその通りだと思うのだが、物語を通して「こころ」は割と他責思考、被害者妄想の部分があると感じてしまったのはまた事実である。

一番それを感じたのは、学校で萌とすれ違った時に萌が声をかけてくれず、後から「私のことを無視した!」と萌を責める場面である。
いやあんたも声かけてないやろがい!と思ってしまったのは少し厳しすぎるだろうか…(せめて明確にこころから萌に挨拶する場面があって、萌が無視して素通りした、という流れならもう少し感情移入できたのだが…)

そろそろまとめに入ろう。
私はなんとなくモヤッとした部分を感想として書き残してしまう傾向があるので、必要以上に否定的に見えてしまったら申し訳ないのだが、全体としてこの作品は好きな部類に入ると思う。(パンフも買ったし)
傷ついた者たちが擬似家族のような関係を築いていき、互いに支え合うという構造自体はとても好きだし、喜多嶋先生の聖母のような愛情と、ゆっくりはっきりした優しい話し方に涙ぐんだ場面もある。
キャラデザや登場人物の動きも可愛らしく、特に「こころ」が最初に「オオカミさま」に引き摺られて城に連れて行かれる場面などは非常に魅力的なシーンになっている。

一方で、2時間という尺で7人を満遍なく描きすぎていて、主人公である「こころ」自身が変化・成長する様子や、最後でキーパーソンになる「アキ」の掘り下げは薄かったように自分としては感じてしまった。(小説原作なのでいろいろと省略されてしまったのかもしれないが…)

また、迫害される側にとって徹底的に優しすぎるがゆえに、第三者の視点から見た際に、「真田さん」関連の描写に代表されるような「不平等さ」は正直気になる人もいるかもしれない。
特に物語を締め括る場面で「こころ」が学校に復帰する際に、イケメンのリオンが校門で待っていて声をかけてくるシーンは、なんかこう進研ゼミ的な都合の良さを感じてしまった…

ここで声をかけてくるのが萌ならしっくりきたし、逆に「こころ」とは反対の立場にある「真田さん」側がカウンセリングを受けるような場面があったりしたらよかったのにと思う。

そういった意味では、表面的には児童文学的な優しい雰囲気を醸している本作も、「持つ者と持たざる者は決して分かり合えないし、互いに関わり合うべきではない」という、かなり現実的で悲観的な、子供向けとは思えないシビアなメッセージ性の作風だったと言えるだろう。
映画館にはファミリー層も多かったが、この作品を見た子供(特に今いじめの加害者側にいる子供)がどう思ったのか、聞いてみたいところである。

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