巳 歌舞伎座 初春大歌舞伎 雑感 <白梅の芝居見物記>
今時の正月芝居
昨年十一月の歌舞伎座における吉例顔見世大歌舞伎が見合わせられたのに続き、長年の歌舞伎ファンとしては、今回の正月歌舞伎が寂しいものであったことは否めません。やむを得ないこととはいいながら大変残念に感じてしまったというのが正直なところではあります。
松竹創業百三十周年と銘打って三月に上演される歌舞伎の独参湯『仮名手本忠臣蔵』の配役を見ても、これが今の歌舞伎界が置かれている現状と言えるのでしょう。
ただ、その逆境をプラスに転じていく力がどれだけ今の歌舞伎界にあるのか。コロナ期同様、今ならではの観劇経験になることではあり、前向きに捉えたいという思いも確かにあります。
そう思いつつも今月の歌舞伎座の舞台は、今の世情の危うさを強く感じ鬱々としている心に勇気を与えて頂くには、少し力不足であったようにも思います。
ただ、普段でしたらきっと受入れられないような内容の『大富豪同心』で打ち出されつつ、何かとても心に慰めを頂いたようにさえ感じている自分に戸惑いさえ感じたのも事実です。
帰りがけ、不満そうで厳しい表情の奥方に「続編があるのかな?」と優しそうな笑顔で話しかけられていた年輩の旦那様とおぼしき方がいらっしゃるのを見かけました。
何かとても微笑ましく感じられました。若い頃は笑えなかった所謂「オヤジギャグ」を若い方に笑ってあげて欲しいと思える昨今ですが、私自身が「オヤジギャグ」に癒やされるようになっているのかもしれないなと思います。
とはいえ、浅草公会堂では平均24才という若者達が奮闘をしています。古典としての歌舞伎を守っていく立場にある歌舞伎座の正月芝居ですから、ここは少し辛口に芝居への感想を少し書いてみようと思います。
寿曽我対面
皆さん精一杯な舞台を見せて下さっていて、数年前に浅草公会堂出演のメンバーで上演された『景清』の舞台を思えば、それなりの一幕にはなっていて若手の皆さんの成長を感じさせる舞台でした。
ただ、様式性祝祭性が重んじられる演目としてはまだかなり見応えがあるというまでには少し距離があることは否めません。
中村芝翫丈の工藤は貫禄としては申し分ないのですがふてくされたように歩く工藤を私は初めて拝見し驚きました。そうした歩き方のクセは中村橋之助丈にも散見されるところであまりよいものではないと私には思われます。殊に『対面』における工藤は人品を感じさせることが何より重要であると私は考えるので看過できないところであると感じます。
中村米吉丈の十郎は台詞回しの工夫が目を引くところがあり、芝居として成立させようという心意気は貴重だと思いました。ただ、古典の様式性、その魅力を体現するまでにはまだ距離があるように思われました。
坂東巳之助丈の五郎は仇討ちにはやる思いばかりを前面に強く押し出そうとしたためか荒事としての大きさやおおどかさ力強さという本作ならではの五郎の様式的な魅力が二の次になってしまっていたように感じます。荒事特有の稚気を見せる部分もありましたがこの一幕は心理より様式性でまずは見せられなければ成立しないことを実感します。
朝比奈はご自分から進んでやりたかった役だったのでしょうか。大磯の虎はやはり立女方の大きさと肚が求められる役どころであることを実感しました。今回の舞台では澤村宗之助丈だけが古風な古典歌舞伎らしい雰囲気をかもし出していらっしゃって貴重だと思いました。市川中車丈の鬼王はこの座組の中で違和感なく芝居の世界に入れるようになってきており成長を感じさせて頂きました。次は大一座で違和感なく古典に挑めることを期待します。
陰陽師 大百足退治・鉄輪
夢枕獏作の二本を並べた試み。原作を読んでいないので内容を語る資格があるとは思ってはいませんが‥。すでに古典的な題材である「大百足退治」と「鉄輪」です。どういった視点から何を見物に受け取ってもらいたいのか。何に注目してもらい何を楽しんでもらいたいのか。どれをとってもかなり中途半端な作品になってしまっていたようには感じられます。役者の皆さんもどこを見所としたらいいのか、どこをどう工夫して芝居として成長させられるか、といった意欲をかきたてる内容の芝居にはとてもなっていないようにお見受けし、却って気の毒であったと思います。
唯一、松本白鸚丈のお元気で立派なお姿を見られたことが何よりで嬉しい舞台でした。
恋飛脚大和往来 封印切
中村鴈治郎丈と中村扇雀丈が忠兵衛と八右衛門を月の半ばで交代。お二人の色の違いが興味深く、また昨年国立の歌舞伎鑑賞教室で拝見した鴈治郎丈の忠兵衛と市川高麗蔵丈の梅川の時と、今回の片岡孝太郎丈による梅川とでは、全く違う芝居になることを実感する舞台でした。
渡辺保氏が義太夫狂言というより現代劇を見ているようであるというようなことを書いていらっしゃいましたが、そういった点で言えば、鴈治郎丈より扇雀丈の方が現代の観客には分かり易く表現された忠兵衛であるかと思いました。上方喜劇的な側面も含めおそらく現代的な芝居作りという点で孝太郎丈とのイキの方が合っていたのもそのためであるように思われます。
ただ、この作品を上方和事の「古典」として見た場合には、鴈治郎丈の忠兵衛も含めまだかなりの研鑽を望みたい思いに私はとらわれます。上方ならではの芝居の主人公を見て、人としてはクズとか失格者といった意見をよく目にします。『封印切』においても、何故一時の怒りの感情にまかせて道をあやまるのか。忠兵衛の行動は合理的な考え方をすれば思慮は足りず浅はかなものであることは間違いないでしょう。
ただ、そうしたことを感じさせないだけの、本作においては、忠兵衛に判官贔屓を感じさせるだけの説得力が役者の「芸」にないと、そもそもこの作品は古典として成立しないのではないかと私には感じられてきました。
廓の中とは言え皆から総スカンをくってしまう八右衛門。皆から人気があり応援したくなる忠兵衛。廓の習いを越えてもどうにかしてやりたくなる梅川。芝居の中の台詞や行動だけではなく、そうした人物であることが役者の肉体を通して無意識に観客の側に伝わっていないと、芝居として成立しない作品なのではないかと、今回強く感じました。
上方の芝居という点で、今回も中村寿治郎丈の由兵衛が上方の味わいがあり貴重。回りの役者さん達が廓の生き生きした賑わいを伝え舞台を盛り上げるていらっしゃるのは、芝居作りにおいてとても重要であることを感じさせて下さいました。上方の味わいは薄いものの中村魁春丈がおえんで入ることにより安心して見ていられる雰囲気が出るのが、芸の年輪というものだと改めて思いました。
一谷嫩軍記 熊谷陣屋
ベテラン陣に支えられての、尾上松緑丈初役の熊谷。
時代物、型物の大作を非常に丁寧に演じようとする真摯な姿勢が伝わる良い舞台であったと思います。その一方、熊谷の出や引込みに古典歌舞伎の難しさを否応なく感じさせられる舞台でもありました。巧みな心理表現だけでは描ききれない、役者としての大きさ、それはイコール座頭格の人間としての大きさにつながっていくのでしょうが‥。焦らず一歩一歩階段をのぼっていくことでしか手に入れることの出来ない芸境ではあるかとは思います。
中村萬壽丈が安定感のある相模を見せて下さいました。中村雀右衛門丈はこの一座における間合いがいつもと違うのかしっくりいっていないように感じられたのは私だけでしょうか。中村歌六丈の弥陀六には安定感がありますが、現代劇的色合いが強調される役作りである分、役者の味わいで見せるという点では薄まってしまっているようにも感じられ複雑な思いです。
二人椀久
実はこの舞踊を中村富十郎丈と先代の中村雀右衛門丈で拝見しているのですが‥。当時から私にはこの作品のどこが面白いのか、全くわからなかったというのが正直なところです。
今回、渡辺保氏の劇評を拝読して、「陶酔を呼ぶような」速い動きに見える芸に魅力があったことが指摘されていて、なるほどなと思うところもありました。ただ、そうしたものを味わえるようになってからそうした舞台を拝見出来ていないのでなんとも言えないのが残念です。
中村壱太郎丈、尾上右近丈によって今後さらに舞台を深められ、この舞踊の面白さを美しさを納得させて頂けたらと今後に期待したく思います。
大富豪同心
原作の小説を読んだこともTVでの放送もさわりくらいしか拝見したことがないので、本作に関して評せる立場にはありません。
ただ、中身のない芝居であるとのSNSおける評判通りの芝居であったことはとても残念です。
本来、八巻卯之吉という人物はシニカルな視点から設定されているのか、または所謂今時の言葉で言えば(私はこの言葉が大嫌いですが)「上級国民」に対する庶民の憧憬を描こうとしているのか、私にはよくわかりません。親のコネで職を得、親の金で豪遊し、親の金をばら撒いて人気を得るような人物を主人公に、何を描こうとしている作品なのか。今までの「日本人の美学」からはほど遠い人物であることは間違いないでしょう。
刀を見て気絶をしてしまう一方で人間や状況における洞察力があるところが唯一この主人公の強みであり、作者が描きたかった視点かなどと想像してみたりもするのですが‥。放蕩息子ながら、一方で社会を見る目のするどさがあるといったようなところに焦点が当てられた芝居であれば、深みも出るかと思われますが。そうした内容ともほど遠く、こうした芝居を見せられても‥と思うのは私だけでしょうか。
「喜劇」というのは単なるドタバタな「笑い」をとるものではないでしょう。世の中の歪みを斜めから、というより真っ正面から捉えてこそ笑いの種にできるのであってそうした視点がまるで脚本に見られなかったのが一番の要因であるように思われます。
今回松本幸四郎丈と尾上菊之丞氏が演出に名を連らねていて、工夫とセンスに溢れた舞台作りであったことは十分評価出来るように私には思えます。ただ、やはりいい脚本あってこそ演出も生きてくるものでしょう。
芝居としては中村隼人丈の早替りでの二役の演じ分けは生きていました。荒海の幸四郎丈をはじめ、役者の皆さんが楽しんで演じている姿はむしろ嬉しく拝見出来たことも確かです。
このご時世ですし、私自身もドリフターズで育ってきた世代ですので正月芝居ということを差し引けば、目くじらをたてる芝居でもなく‥。最後の総踊りなど、皆さんが楽しんで歌舞伎座の広い舞台を活気で充満させている姿に力をいただきながら、打ち出されることは出来ました。
2025.1.25