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『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』
辰 歌舞伎座 <白梅の芝居見物記>
ベテラン役者の芸の見せ場と若き空海の夢
平成28年(2016)年、夢枕獏原作の小説を新作歌舞伎として上演した『幻想神空海』が再演されました。初演時は「高野山開創1200年記念」と銘打たれていましたが、今回は「弘法大師御生誕1250年記念」としての上演です。
大幅に改変が加えられていますが、脚本演出とも前回と同じで、かなり芝居としては面白く進化していたように私には思われました。
そう思われたのはなんと言っても、中村歌六丈、中村雀右衛門丈、中村又五郎丈の存在感とその芝居によるところが大きかったと思います。
楊貴妃の死をめぐるミステリーの謎解きのような物語からはじまり、さらに丹翁と白龍との関係がからみあってショッキングな結末が用意されているわけですが‥。
その物語が、三人の思いが、生々しくなりすぎず重厚感をもって描かれていくのが最大の見せ場になっており、お三人の充実した芸境により、静かにそれでいてずしんと胸に迫ってくるようないい舞台を見せていただきました。
その重厚な芝居の一方で、若き空海の渡唐における野望というには青すぎる、もっと言えば少年のような夢とさえ言える素直な「密教」に対する思いが描かれていて、ほどよいバランスを与えていました。
観客の立場としてはそれで気持ちが軽くなって芝居を楽しめていられたのも確かです。
「密教」を日本にもたらし、さらにそれを日本から世界に広めていくのだという「夢」。
それを例えば真言宗の僧侶や信者の方々がどう受け取るのか。
一般の方々がどう受け止めるのか興味があるところですが‥。
私は、こうした青い夢に共感せずにはいられないタチなので素直に受け止めたいと思います。
空海渡唐のフィクションを楽しむ
本作で描かれている空海はあくまでフィクションの中の人物であり、この芝居はそれでいいのだと私には思えました。
作者は丹翁、白龍、楊貴妃の三人の物語に「密教」の教えを暗示させる意図がもしかしたらあるのかもしれませんが‥。
歴史という意味でも、楊貴妃や玄宗皇帝は日本の歴史にも非常に縁が深く、日本に伝わる楊貴妃や玄宗の日本への渡海は実際にあったことであろうと私は思っています。
ただ、本作の楊貴妃にまつわる物語は、完全なるフィクションであるかと私は考えます。
また、私はこの物語に「密教」につながる教えを見いだすことは出来ませんでしたが、多くの芝居見物にとってはそれで十分でもあるかと思います。
本作では唐から「密を盗む」という言い方をしていますが、実際には大陸や半島では弾圧対象になり続けた「仏教」が日本に伝わり守られていくのにはそれなりの理由があったからこそではないかと考えています。
中国で発展した「大乗仏教」は、日本だからこそ残すことが出来たともいえるのであり、空海が2年という短期間に「密教」を会得出来たのも、空海一人の才能によるだけではなく、その文化を受入れ守るだけの素地がすでに日本にあったからだと考えた方がいいように私には思われます。
女性論理で動いていく日本において、空海のように男性的な理論や知見で仏教を日本に広めた功績は大変大きかったであろうと思います。
比叡山のように中央の政治体制に組み込まれた国家鎮護としての仏教だけではなく、空海が草の根的に仏教を全国に広めていった功績は非常に大きいものがあったと、今回空海に思いをいたすことで、今更ながら考えさせられました。
今回、阿倍仲麻呂を登場させたのは、日本の古代史や唐との関係を考える場合思わせぶりなところもありますが、配役の関係以上の意図はくみ取れませんでした。
憲宗皇帝謁見の場では、松本白鸚丈の憲宗皇帝の大きさといい華といい、声に張りがありこの場を大変見応えのあるものとして下さいました。
また、空海が「樹」と大書した字の枝が天に向かって育っていく様をスクリーンに映し出す趣向は、私にはとても素敵に思われました。
2024.9.6