「なぜ自己否定するのか」のブラックな裏心理
気づいて愕然としています。
私は学生の頃から圧倒的な自己否定感がありました。最初は小さなコンプレックスだったと思います。とりわけ「恥ずかしい」「怖い」の感覚がすこぶる強かったので
「こうなりたい」
より
「こうなりたくない」
をバネにせっせとやってきたところがあります。
母親が、湧き上がる感情をそのまま失禁のごとく振り撒くタイプだったことも繋がっているかもしれませんが、同じ親のもとで育った妹はそうでもないから、どちらかと言うと自分の生まれ持った特性が繊細に受け取り過ぎなことが原因と分析してます。
いずれにしても
無意識に周囲へ、生きる軸を開け渡していたし
自分の感情を思ったまま口にするのは「はずかしい」から
そんなこと感じちゃダメ
私は間違っている
と、感情の出口を「いったんふさぐ」癖がありました。
で、これは
もろもろ感情表現の歪みなどをともなう慢性的な痛みを引き起こすわけですが
苦しみや痛みをともなうことで苦労して報われたい欲に基づいている、というか
ミッション、のようにどこか
「良きもの」として解釈していた気がするんです。
「苦労しなくては、成果が得られない」と考えがちな人の思考パターンですが
報われることを想定して
自己否定を「前向き」に行っている
そんな感覚です。
そして、気づいたんです。
これ、自分を罰して自分を厳しく育てているようで、まったくそうではない。
思い切り人に依存している
ことに。
これは、自分が当事者じゃなければ
あまりにも失礼な言い方だと自覚しています。
でも己への戒めのためにも、どうしてもアウトプットしたいと思った次第です。
この頃、パートナーシップにまつわる自助会や講演会で、自分みたいな背景や境遇の人を見ることが増え
共通してこの癖があることに気づきました。
それは、謙遜を超越して「自分を罰する」こと。笑いながら自分を公開処刑しているみたいに。
なんと言っても、彼女たちの話し方、私の話し方とすごく似ている、とも思いました。
同時に見えたんです。
自分を罰しながら、奥底に閉じ込めた怒りを
育てることの、本人も認識してない
ある種の「利得」が。
それは
いつでも他人の責任にできるようにしている奥底の無意識の心理状態。
「被害者でいられるように無意識に備えている」
と言ったら、あまりにいじわるな言い方ですが、本当にそう思いました。
そして、自分がそれに該当していることを
それこそ
「恥ずかしく」
思ったんです。
トラウマの怖さはこのあたりにある、そう思います。
これは、発見でした。
自己否定癖がある人の気持ち、良く分かります。
まずは、他人から受ける痛みを回避する目的
トラウマに起因する自己防衛からはじまっていて
無意識の習慣になってしまっていること。
トラウマとはいえ
自己防衛の方法は、自己否定以外にもあるのに、わざわざ自己否定の方法を選んでいる人は
おそらくほぼみんな、良心的でやさしいタイプだと思います。自分も含めるから、ちょっぴり言いはばかられるけど
やっぱりとてもそう思うんです。
「誰かを貶めて自分が上がろう」
という方法だってあるのに
「自分を貶めて人を上げよう」
ってやってる時点で
どう考えたって悪い人なわけありません。
そんなわけですから、そういう人たちの多くは
「1ミリも人のせいにしてると思われたくない」
という、「誤解を持たれることへの恐怖」を抱えています。
私はそうでした。
でも、自己否定の恐ろしさを、結婚生活を振り返って心底実感してる今
声を大にして言わなくてはと思っています。
自己否定することで「安心」していてはいけない
と。
自己否定することの根底には
『いつでも人のせいにできる』
という魂胆が無意識に眠っていて、いつでも自分を『被害者』にすることができる『メリット』がある。
そして、何よりハッとしたのは
「そのことを他人はわりと敏感に感じている。」
という事実。
「根拠はないけど他人から鬱陶しいと思われている気がする」
って、思ったことはありませんか?
私はすごくあります。
それは、自分の中にある
優しさに基づいてる(っぽい)自己否定の奥底の無意識の被害者魂胆を他人が感知してる
というからくりだと思うのです。
ちなみに
人が最も他人をを嫌う瞬間てどういう心理状態の時かご存知ですか?
それは
『目の前の人に自分が怖がられていると思った時』
なんだそうです。
相手からしてみれば、いわれのない「加害者扱い」をされている感覚。
「誰かのせいにしていると思われたくない」
と思ってる自己否定癖のある優しい人たちは
「自己否定をすることで、誰かのせいにしていて、しかもそれが伝わってしまっている」
という事実を認識したら
自己否定をすることが、何よりも恐れていた恐怖に直結するという感覚になれるかもしれません。
私はこの皮肉な状況に気づいて
「やってられんな!」
と、これまでの自らの茶番に愕然としたのでした。
でも、この身についた習慣を外すのはめっちゃ難しい。
「自分に優しくしてあげて」
なんて、なまっちょろい自己啓発なんて、歯が立ちません。こちとら、数十年間、自己否定で鍛えられてますから。
「自分に優しくして」じゃなくて
「優しくしないと、こんな恐ろしいことがある」
という、トラウマ系アプローチに変えないと、変わらないでしょう。
ー最後に。
自己否定って、自己憐憫とも繋がるんですよね。
「自分かわいそう」の気持ち。
あれはあれで
実は脳内で癒しの分泌物を誘発するので、どちらかというと自己否定の1番のメリットは
自己憐憫による脳内物質の獲得
ともいえます。
ただ、当然なことですが
「かわいそうな、自分」
という情報にともなって脳内物質を出せば出すほど
「かわいそうな状況=不幸」
が、じゃんじゃん訪れてくれちゃいます。
いわゆる「引き寄せの法則」通りの現実と
なるわけです。
こわくないですか?
こわいですよね。
そんなわけで
私は自己否定から足を洗うことにします。
自己否定のために使っていた巨大なエネルギーを
自己肯定に注ぎ込む練習を
今からはじめるんです。
はじめはすごく下手だと思いますし
ある種の痛みすら伴うかもしれません。
ある意味
「防衛してくれていたものを外す作業」
でもありますから。
でも、もうおしまい。
がんばれ、私。
がんばれ、私みたいに自分をたくさん傷つけてきた人たち。
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