【一首評】赤い葉の垂れる歩道をひとときの陰りが通り過ぎようとした/嶋稟太郎
第一歌集『羽と風鈴』より。「ようとした」に注目しました。
「赤い葉」は秋に色づいた紅葉と取ってもいいし、「紅い」ではなく「赤い」が選ばれているので、秋でなくても葉が赤いような樹を想像してもいいかもしれない。前者だとしても「紅葉の」と始めるとありきたりな景が結ばれてしまいかねないので、さりげない語の選択が効いているように思う。
「陰り」は雲が落とす影のことだと読んだ。そして「ひとときの陰り」なので、晴れの中を小さめの雲が通り過ぎていくのだと想像できる。情景の、短いフレーズへの省略が巧みである。
結句の「ようとした」は短歌の文末としては少し珍しいけど、大事な役割を担っているように思う。
「ようとした」の他の用例を考えてみると、「その猫が自分の前を通り過ぎようとした瞬間、大きな不安に駆られた」や「ポケットから財布を取り出そうとしたが、持ってきていないことに気がついた」など、「ようとした」ことが未遂のうちに別の何かが起こる・描写されることを示唆することが多いように思う。「ようとした」を境にしてストーリーが別の位相に入っていくのである。
そして掲出歌は「ようとした」で終わっていて、その後にあるはずの何かの描写は(まだ)ないままである。これによって「ようとした」が時間の流れの仕切り板のように作用して、明るさが暗さへと変わり始めたまさにその瞬間を一首の中に押し留めている。もし「通り過ぎようとする」や「通り過ぎ始めたり」だったら、もう少し長い時間がゆるゆると流れて行く印象になるだろう。
「ようとした」後のことは描写されていないけど、「陰りが通り過ぎようとした」ことに気づいて少しはっとした主体が想像される。はっとさせられるぐらい急にあたりが暗くなったのだろう。「ようとした」の仕切り板の前後では、きっと主体の感覚に大きな違いがある。
雲が来て急に暗くなるというのは、平地では少し珍しいけど確かに起こることで、そのときは物理的な明るさだけでなく、なにか日常の位相も反転していくような感覚になる。そんなエアポケットのような瞬間や感覚を捉えるための文末が、「ようとした」なのではないだろうか。