【一首評】春ならばなづな詰めたし夏ならばくちなしの花そのくちばしに/光森裕樹

第一歌集『鈴を産むひばり』より。ランダムに一首を引いて鑑賞を試みます。

一首として

なずなは早春に開花して夏になると枯れる。花は白く小さくたくさん咲く。
くちなしの花は白く6~7月に咲く。色素がとれるのは花ではなく果実。

くちばしが詠みこまれる。鳥のものかもしれないし、何かのメタファーかもしれない。
そのくちばしに、春ならばなずなを詰めたいという。
そして夏ならばくちなしの花、をくちばしに詰めたいという。
この流れだと「なづな」が指すのはその花だろう。

季節の花を鳥のくちばしに与えてついばませたい、と解釈するには引っ掛かりを覚えるのが「詰めたし」。
小さな袋や箱に詰めるなら普通かもしれないが、くちばしに、である。この語によって歌全体が不安定感を増したまま結ばれる。
生きている鳥を押さえつけながら無理やりに花をくちばしに詰めていくような絵が浮かぶ。あるいはくちばしの持ち主は死んでいるのだろうか。どちらにしても少し気味の悪い拘りを感じる「詰めたし」である。

音の上では「なづな」と「夏ならば」、「くちなし」と「くちばし」が非常に近く、短い間隔で繰り返される。文体も相まって、うわごとのような響きが感じられる。

こうした気味の悪さやうわごと感と、季節の花というモチーフが重なることで醸し出される、朦朧とした感覚が独特な一首である。

連作の中で

掲出歌が収められている連作のタイトルは「なんのはなたば」で、カッコ書きで「(夢十夜 第一夜)」と付されている。夏目漱石の小説を下敷きにしていることが伺われ、実際に夢の内容を描いた一連であることが一首目からわかる。

正直に言えば、掲出歌の中に上述の「朦朧とした感覚」を読み取るのはこの連作構成があるからである。しかし夢の一部だとして解釈すれば、この歌の言葉の選びがどれも効果的に思えてくる。

夢十夜の第一夜は死んだ人(女性)の再来を待ち続ける物語である。その中に「くちばし」は登場せず、歌を読むための直接的な手掛かりは得られない。しかし、死んでしまって今ここにはいない人と、「くちばし」を持つ鳥を重ねるのは何となくわかる気がする。そういえば、「くちばし」という音は「くちびる」をも思わせる。そうなるとこの歌は、鳥なのか人なのか、生きているのか死んでいるのかも判然としない曖昧なものをイメージしたもののように思えてくる。連作における次の一首はというと、

 秋ならば茱萸のひとつぶ冬すぎて買ふなら君になんのはなたば

春、夏に続いて秋と冬が詠まれ、季節が巡る。茱萸の実は人間も食べるけど、やはりどこか鳥を思わせるモチーフ。一方で「はなたば」は人間のため、特に特別な相手のためのものというイメージが強い。ここでも「君」と鳥が重ねられているように思う。

掲出歌をはじめとして、ぼんやりとした夢見心地の中に希求と寂しさがにじむ連作である。まるで季節が移ろうように永く静かに、そして本能のように、いない人のことを思い続ける。一首が手渡すのはその感覚の一部だと感じた。

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