道徳科について(2024/3/9)
今日の日記。
特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。
(今日の写真は本当にテキトーに今撮りました。今日はたまたまハーゲンダッツが冷凍庫にあったから横取り。母か兄のだから、明日新しいのを買ってバレないようになおしとこう。)
今日あったこと
・読書をした。
『現象学』(木田元)を読み進めた。フッサールからハイデガー、そしてフランス現象学まで。今日はサルトルの実存主義についての部分まで読んだ。もーちょっとでお目当てのメルロ=ポンティに辿り着ける。
あと、『道徳教育学研究』(道徳教育学を考える会)も少し読んだ。大学では形式的に僕の専門教科(?)は道徳といっていいらしいから、確かに僕も興味は十分にあるし、ということで一時期買ったのがこの論集。だけれど全く手付かずだったので、まぁ眺めてみよう、ということで、、
今日について
僕は基本的に道徳科についてはあまり快く思ってはいない。もちろん学校教育全体を通して道徳教育を行うことには当然教師として、さらには教育者としてこれが一つの使命と理解している。
もっと言えば、僕があえて教育学部を選んで大学に入ったのは、そうした意味での徳育に興味があったからであって、だから道徳教育には常に興味がある。
しかし、それを「道徳科を要として」行うことには懐疑的だ。
(なぜなら、と続ける前に)
ただ、僕の知っている限り僕が信頼できる先生はその道徳科においてこれの可能性を十分認めている節があるし、僕よりも賢く実践のある多くの教師が道徳に大きな期待を寄せているのも事実だ。
僕は教育実習で大学の附属小学校2年生に配属されたが(といってしまうと大学の属性がバレちゃうんだけど)、その配属学級の担任の先生の研究教科が道徳で、何度かその先生の道徳の授業を参観したこともある。正直言って、心打たれる。
子どもたちの「素直な心」をほとんど忘れてしまっていたことにそのとき気付かされた。きっと多くの大人もその忘れ去ってしまっている「素直な心」を子どもたちは持っていて、その「素直な心」が動かす道徳の授業というものがそこにはあったように感じられた。
そんなことで僕も研究授業(教育実習の集大成です、みたいな授業)は道徳科に決めた。
とまぁ、そんなことで頭では否定的でも、心でなんとなく抗えない揺らぎがある。
ならそのまま肯定すればいいのではないのか、というとやはりそういうわけにもいかない気がする。
そのギャップはおそらく僕の実践のなさが大きな原因だ。だから、やっぱり良かったとか、結局ダメだと思うとか、そうした判断は教師になってからでないと出せないものだろうと思う。
だから、スタンスとして僕は道徳科について
今感じている疑問はあれど、それは道徳科を否定しようとしているわけではない。
むしろ僕には否定するだけの資格がない。
そういうことで、肯定もまたし得ない。
今僕が素朴に感じている素直な道徳科への想いがあるというのに過ぎない。
このまま話を元に戻して、
なぜ僕が道徳科に対して(道徳教育に、ではない)納得していないのかを書こうと思ったけれど、、
ねむい!!!
また今度、書こうかな。