大丈夫と言えるほど頼もしくなれる気はしないが、「だいじょぶ!」なら震えながら言えるかもしれない
ハロー!志織です。
週末ですね。
私が住んでいる関東のこちらの地域は、久しぶりのしとしと雨です。
皆さんの居場所の、今日のお天気はどうですか。
私は、本を読むだけの予定の週末は、雨だと、少し嬉しい気持ちになります。
晴れていると、「どこか外にごはんでも食べに行く?」「せっかく晴れているし買い物でも行く?」と家族からのお誘いが入るので、それはそれで、もちろん嬉しいし、出かけたら出かけたで楽しくなるし、幸せで大切な時間なのですが…。
「本を読む」っていうのは私にとっては大切な予定であり、ひとつの行事でもあるので、正直、じゃまされたくないこともしばしば。
(じゃま、って思ってしまう自分にもすこし罪悪感)
でも、相手が「一緒に出かけたいんだろうなぁ」と思うと、断るのもかわいそうな、申し訳ないような気がしてしまうたちで、本当に気が向かないときは勇気を出して断るのだけれど、そうでないときは、「うん」と首を縦に振ってしまうのです。
家族に対してもこうなんだから、そりゃ、生きづらいよなぁ、私。
だから、そんなときの天気が雨だと、「今日はお天気も悪いし家でゆっくりしよう」と自然となるので、雨の週末はけっこう好きなのです。
雨さん、いつもありがとうね。
さて、今日の本ですが、こちらを紹介します。
きくちゆみこさんの、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』
私は普段は限界サラリーウーマンのため、月〜金で朝から晩までシャカリキ!に働いているのですが、昨日はたまたま午後半休だったため、ずーっとずーっと気になっていた本屋さん、twililightさんに足を運んできました。
この『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』は、twililightさんで発行されたものだそうですが、タイトルがかわいくて、なんだかすごく正直で、とても切実さを感じて、本から手が離れなくなってしまい…連れて帰ることにしました。
twililightさんを知ったのは、蟹ブックスの花田さんが「好きな本屋さんです」と何かの媒体でおすすめしていたような気がして、それを覚えていた私は、そこからずっと気になりつつも、なんやかんやと行けずじまいだったのでした。
繰り返しすぎてちょっとウザいかもですが、限界サラリーウーマンの私は、「午後半休だけど仕事は永遠におわんねぇ〜〜〜」と思いながらコソコソ仕事をしていたところ、ついに上司に見つかり、「キリがないからいい加減に帰れ!勝手なことをするな!」といつものようにブチ切れられ(…)、いそいそと会社を後にしました。
仕事をしてもしなくても怒られる。シュン。
そして、実はおとといの夜から、「せっかく午後半休で少しでも早く帰れるなら、もしかしたら、ついにtwililightさんに行くチャンス…かも!?」と思っていた私は、「よし、正式に会社を追い出された(?)し、チャンスだ!行こう!」と思いたち、いつものルートとは反対の方向にぐるん!と体を転換して、お店に向かいました。
つい2日前にも、会社近くの本屋さんでモリモリ本を買っていましたが、気になっていた本、気になる本がいろいろあり、今回は厳選して、4冊購入。
そんななかで、まずシェアしたいのが、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』。
12のエッセイとアフタートークからなる本なのですが、どれも甲乙つけ難い…。
私が特に心に残ったのは、「わたしにとってのわたしたち」、「鎮痛剤と押し寿司」、「熱の世界」。
特に「熱の世界」は、多くの人(特に女性)が少なからず経験したことがあるようなことだと思うのだけれど、それをこんな風に感じ取って、言葉にしている人にはじめて出会ったので、衝撃を感じたのでした。
ここ最近よくSNSで見かける「ぶつかりおじさん」。
女性をターゲットにして、駅の構内や電車を待つホーム、あるいは電車の中などで、わざと突進してぶつかってくるおじさんのことです。
きくちゆみこさんの場合は、ある日の品川駅のタクシー乗り場で、お子さんとご両親と一緒に大荷物に囲まれながらタクシーを待っていた時のことを、このエッセイのなかで振り返っています。
タクシーを待つなかで、いざ先頭になったとき、当時、まだ2歳の子どもを抱き上げ、ベビーカーや荷物を整理しながらタクシーに乗り込む準備をしていると、「おい!なにもたついてんだよお前ら」「ちんたらすんなよ、早く行けよ!」と、怒鳴ってきたスーツ姿の長身の男性。
それに対して、きくちさんは喉をふるわせながら、それでも体の奥にしっかりと根を張りながら、相手の男に対して、こう怒鳴り返したと綴っています。
「なんだよその言い方はー!だったらあんたが先に行けよ!」「ほら、行きたいんなら行けよ、行け、行け!!!」
語弊を恐れずに言うと、正直、ここまでのやり取りは、最近の日本だと少しずつ見られるようになってきた光景だなと思うんです。
どういうことかというと、フェミニズムの考えが、私たちの住む日本にも少しずつ、ほんの少しずつだけど浸透してきて、一緒に声をあげて、たたかってくれる女の子たちが増えてきたと思うから。
「黙らない」女性が増えてきたからこそ、団結して、一緒に反撃の知恵を出し合って、平等を、権利を、ようやく「謳える」ようになってきたと思うから。
(ただ、とても悲しいことに、「髪を金髪にしたら、その途端に、街でおじさんにぶつかられることが全くなくなった」という事実を教えてくれる女の子たちの報告をSNSで見ていると、「やはり見た目で“弱い”と判断できる対象を目がけて攻撃をする人間が沢山いるんだな。そして、その人間をそんな風にしてしまうのは、もともとその人が悪人で嫌な奴だからなのか?それとも、この世界で生きていく中で、この社会システムや、その人を取り巻く環境が、その人の魂を奪ってしまったからなのか?」と逡巡する自分がいます。)
だけど、私が彼女のエッセイを読んでいくなかで、自分の心が本当に求めていたものにハッとしたのは、次のこの文章を読んだから。
アフタートークのなかでも、きくちさんは、「あの時、もし私が、小柄で、童顔の、女性じゃなかったら??同じようにいいスーツを着て、同じようにかっぷくがよく、同じように偉そうなおじさんふたりの対峙だったら?もしくは、自分がマスキュリンなヨーロッパ人の男性だったら…??などと、繰り返し、答えの出ない問いを繰り返し、答えを探し続けています。
そして最後に、「心と心で、魂と魂だけでは存在できないこのリアルな世界で、それでもそれぞれが背後にしょっている過去を見つめることを怠りたくない。」と述べています。
この文章を読んで、「ああ、私もただ、だれとも、なるべくけんかをしたくなくて、なかよくしたいだけなのになぁ、どうしてそれがうまくできないんだろうなぁ」と腑に落ちたのです。
わたしだって、相手をののしりたくない。
相手もきっとほんとうは、だれかをののしりたくない。
でも、そうさせてしまうのは何?
怒鳴り散らしてきた相手も、本当は、「ちがう何か」に怒鳴っていたのかもしれない。
でも、こちらも守るべきもの・守りたいものがある以上、たたかわなくてはいけないときがる。
でも、それ自体もほんとうに、たたかわなければ守れなかったもの??
今起きている戦争も、お互いの「守るべきもの」を守るため、と言った結果、殺し合いの日々になっているんじゃないの??
私自身も、彼女の体験を読んで、誰のことも呪いたくないのに、意識的にも無意識的にも、日々誰かを呪っていて、そしてまた私も誰かに呪われていて、そんな日々にさみしさとかなしさを抱いていたんだなと気付いて、涙がこぼれた。
ずっと怒っていたのは、悲しかったからなんだなと気づき、涙があふれた。
諍いは、「分かってよ!」という、お互いの心の叫びなのだと思うのだけれど、叫んだり怒鳴ったりせずに、お互いがのびのびと自由に「居られる」世界をつくりたいんだなぁと、自分の望みが垣間見えた。
歯を立てると、あっけなく崩れていくスコーンのように、心がほろほろと解けていくような感覚になった。
私はこのエッセイを読んで、彩瀬まるさんの小説『かんむり』を少し思い出しましたが、ちがう身体どうしを生きる私たちは、決してひとつに混ざり合うことは出来ないのかもしれないけれど、それでも私も、相手のしょっているものを見つめることから逃げないで生きてゆきたい。
綺麗事かもしれないし、愛があるからこそ、大なり小なりの(世界で起きている、国同士の戦争や、目の前の誰かとの戦争など。)戦争は起こり続け、無くならないのかもしれない。
だけど、それでもまずは、自分の心の中の戦争を終わりにして、目の前の人との戦争を終わりにして、それを私の短い一生の中でも、少しずつ続けて拡げていったら、やさしい世界はつくれるのかな??
みんなが好きなものを好きと言って、それぞれが得意なことをそれぞれに引き受けて、大切なものを大切にするだけの世界が出来たら、それってみんなが幸せになれる世界じゃないのかな。
それを現実に落とし込んでいくために、大人として生きている私が出来ることを探して、時には泣き喚きながらでもいいから、もがいていたい。
だってさ、「大丈夫!」って力強く言える人だけが肯定される世界じゃなくて、震えながらでも、瞳に涙をたくさん溜めながらでも、「だいじょぶ!」って言っている人を、応援したいと思えるような、肯定されるような世界だったら、やさしくて素敵だなぁと思うから。
そんなことを強く思った、雨の夜でした。
それでは本日は、このあたりで。
また本を片手にお会いしましょう。
アデュー!