「写真は構図が命!」は本当なのか?家族写真が教えてくれるもの。
いい写真とは?の定義を調べたり、聞いたりすると、まず出てくるのは「構図」の話ではないだろうか。
どれだけ高級なカメラでも、被写体が美しくても、構図がバラバラではいい写真とは言えない。みたいな話をよく耳にする。
でも、これって本当にそうなんだろうか?
家族が人生を終えるたびに写真を見返すが、結局のところ大切に持っておきたい写真に共通するのは、構図ではない。
なんだか違う気がする。
家族写真が教えてくれるもの
最近は気軽にフォトグラファーの方に写真を撮ってもらえる時代になり、いろいろな形で家族写真を残す人が増えていると思う。
だけど、じーちゃん、ばーちゃんが亡くなった時、見返したくなる大切な思い出というのは、素敵なビーチで撮ったロケーションフォトではなかったりする。
夏休みに一緒に釣りをしている風景とか、家の中で戯れあっている様子とか、逆に、僕らが小さかった頃に撮ったような、斜めでブレている写真とか。
結局のところ、写真というのは、「今だ!」と思った瞬間を残すことに意味があるように思う。
きっとそれは、構図の良さをも越える、何か訴えるものがあるんじゃないだろうか。
なぜ、人は写真を撮るのか?
そもそも、なぜ人は写真を撮るんだろう。世界中には溢れるほど、ステキなフォログラファーがいて、きっと今この瞬間も、世界のどこかでシャッターを切っている。
一方で、プロのフォトグラファーから「人間の目を超えるレンズが開発されないだろうか?」そんな言葉を聞くこともある。
つまり、どれだけいいカメラ、いい条件が整っていたとしても、「人の目を超えるレンズはない」と感じる人がいるということ。
「あんなに綺麗な夕日なのに、写真に撮ると、なんだか違う・・・」
そんなモヤっとを抱えたこと、みなさんも一度は経験があるだろう。
とにかく、美しい世界を見るためであれば、ファインダー越しではなく、自分の目で見る世界が一番なんだろう。
では、なぜ美しさが劣ってしまうことを知っていながら、人はカメラの開発を続け、写真を撮るのか?
ぼくらは、「時」をだれかと共有したい
一人旅で訪れたタイ王国
アユタヤで見た寺院群や、悠久の時の流れ
心が荒んで逃げ込んだ、沖縄県の波照間島
思わず「天国だ」と呟いてしまうほど、美しすぎるニシ浜ビーチ
何気なく入ったカフェで出会った、心安らぐ空間と優しいコーヒーの香り
ぼくらは旅でも、日常でも、なんらかの「時」を過ごしている。その「時」から何かを感じ、考える。ときには、人生を変えてくれたり、一生の思い出になることもある。
その「時」をだれかと共有したい!
意識でも、無意識でも、そう思ってシャッターを切る人は多いと思う。人が人と繋がりたい、と願う自然な感情。
どれだけ「一人旅」が好きな人でも、帰った先で誰かと会うことを、きっと楽しみにしている。写真を一つのコミュニケーションツールとして、さまざまな「時」を撮り溜めていることがあるな、とぼく自身も感じている。
写真で「生きた証」を残したい
言葉にすると少し重たいが、結局はそういうことだよなと。
愛する我が子が、生まれてから大きくなるまで。
旅先で現地の人と自撮りをしたり、絶景をバックに記念を残す。
歳を重ねたじーちゃん、ばーちゃんと過ごす大切な日々。
シャッターを切るときは「生きた証を残すぞ!」なんて思ってなくても、あとあと振り返ってみると、あのときに撮っててよかった、と思うことがたくさんある。
ちょっとよくわからない数字だけど、とにかく一日一秒、一度たりとも同じ時間は決して訪れない。だから、その時しか残せない一瞬が宝物だし、今を生きている人ほど、一期一会を大切にする人ほど、写真を撮るのかもしれない(しおんちゅの自論)。
なぜ、写真は構図が命なのか?
これについては、プロの写真家の方々を差し置いて、ぼくに言えることは何もないので、構図について語ることはしない。
ただ、人の目や心理を通して写真を見るとき、構図が果たす役割が大きいことは事実なので、決して「構図が命!」説を否定しているわけではない。
写真の構図について知りたい方は、ぜひネットや書籍で情報を検索してほしい。わかりやすく、タメになることがたくさん学べるし、写真の上達には必要な知識だと思うので。
ぼくがここで残しておきたいことは、構図の詳細ではなく、「なぜ構図を意識して撮ることが評価されているのか」ということ。
これもぼくの自論だが、写真を見てもらうことや、メッセージ性を伝えることが重きにあるからこそ、構図が大切になんだろうと思っている。
ぼくも含め、写真を撮る人間は、被写体と出会い、心が動かされたときにシャッターを切る人が多いはず。被写体から何かを感じ、「残したい!」「伝えなきゃ」と思って写真を撮る。
そして、写真を撮るという行為が本当に満たされる瞬間というのは、伝えたかった人、見てほしかった人に見てもらえたときではないだろうか。
つまり、心のどこかで「だれかに見てほしい」思いでシャッターを切り、コミュニケーションや評価を求めている。
これは、だれしもが自由な表現者になりうる現代の楽しみでもあり、SNSという世界が生み出す息苦しさである、と感じる人もいるかもしれない。
写真が誰かに見られる前提である以上、いわゆる正しい構図が整った写真は、より被写体を際立たせるし、高い評価を得られることが多いのだろう。
写真はコミュニケーションツールであり、自分を満たす癒しでもある
ここでまた、冒頭の問いに立ち戻るようだが、みなさんは「だれかに見てもらいたい」一心で写真を撮っているのだろうか。
ぼく自身の答えとしては、そうである時もあるけど、そうでない時もある。
沖縄で素潜り水中写真家として活動する背景には、もちろん海の世界をたくさんの人に届けたい、シェアしたいという思いがある。
だれしも簡単に行けるわけではない、「海の中」というちょっと特殊な世界を共有するために、写真というツールが非常に便利だと思っている。
海で泳いでいて、感動した瞬間を写真に残し、これは見てほしい!と思ったものはSNSで発信をする。
でも、SNSがなければ撮らないか?と言われると、そうでもない。後から思い出を見返したり、自分の部屋に飾ったり、自分自身が大好きな世界に没入できるのも、写真の良さだと思っている。
(心のどこかで、見られることを意識しているのでは?と聞かれると、否めないかもしれないが)
心の中で大切にしまっておく写真があってもいい
一方で、たくさん撮ってきた写真の中でも、外に向けて発信しない写真もたくさんあるはずだ。ぼくにとって、その一つが「家族写真」である。
カメラと仲良くなって、気づけば早10年以上
ワクワクする趣味なんだけど、家族を撮る瞬間は、今でもなぜか緊張する。それでも、ある時を境に、毎年家族の写真を撮ろうと心に決めた。
なぜ、家族写真を撮ることにこんなに緊張するのか。
今でも100%言語化できていない。ただ、一番身近な存在であるはずの家族ほど、向き合うことがこわいのかもしれない。
改まって写真を撮ることに、お互いが緊張しているのかもしれない(家族も撮られることに慣れていない)。
家族同士で日々、見せ合っている素の表情は、どれもが当たり前すぎる。笑顔や沈黙、親の怒る顔など、何十年も一緒にいることで、どれも尊さすら感じられなくなっている。そんな人がきっと多いはず。
でも、ある時を境に日常に終わりが訪れ、一人、また一人と家族が人生の最期を迎えていく。もう、手を握れない、声が聞けない、顔も見れない、喪失感や寂しさを感じる時が必ず来る。
でもそこで、たった一枚でも、写真があれば、「当たり前の日常が一生の宝物」に変わる時がきっと来る。
そこで大切だと気づいたことは、「写真は構図が命!」にこだわるよりも、家族との時間を写真に残していくこと。
・恥ずかしがって、家族の写真を一枚も残せなかった自分
・構図がぐちゃぐちゃでも、何気ない家族の表情を1枚でも撮れた自分
どちらが人生の後悔を減らせるか、と考えたときに、ぼくは家族の写真を残したいと思うようになった。
カメラ好きのぼくが、家族以外の笑顔をたくさん撮っていながら、振り返れば家族の写真に納得できないなんて、嫌すぎる。
そう思い、勝手に自分に課した使命であり、自己満足な親孝行。
心に留めておきたい家族との思い出をカタチに残すこと。これは、写真にしかなせない、究極の技だと思うから。
「構図が命!」より大切なのは「心」で撮ること
以前、フォトグラファーである須田誠さんが開催する写真のスクールに通っていた。そこでの教えが、今でもぼくの大切な基盤となっている。
この教えが意味することは、
「まずは被写体をよく見なさい。
そして、そこから何を感じるのか、胸に手を当てて考え、想像しなさい。
自分が撮りたいものが見えた時、最後にシャッターを切ればいい。」
ということ。
写真を撮る前に、こんな深いことを考えているのかと驚きを隠せなかったが、シャッターを切るまでの思考やストーリーが明確であるほど、写真から伝わるメッセージ性が強くなることを実感できた。
映えだけの写真は、一時的な満足感で終わってしまう。でも、被写体と深く向き合って撮られた写真は、いつまでも心に何かを訴えかけてくると知った。
スマホの誕生により、カメラや写真は生活の中で切り離せない存在となった。
ぼくが小6の修学旅行に行った20年くらい前は、フィルムで24枚しか撮れないインスタントカメラを片手だった。「どこで24枚を写真を撮ろうか」について真剣に考えていた時代がある。
それだけ一枚の写真を大切に撮っていた。
今でこそ、生活に欠かせないスマホとカメラが合体し、ぼくらはいつでも、だれでも写真家になれるようになった。
だけど、無意識的に「だれかに見せる」写真を撮るからこそ、良くも悪くも映えや構図に囚われがちだなと思うし、ちょっと窮屈さを感じる。
もちろん、お仕事として求められるクオリティーを維持するために、構図は非常に大切だけど、写真って、それだけじゃない気がする。
去年、トークショーでお話を聞いた写真家の立木さんのお話で、ぼくのカチコチだった頭がぶん殴られた記憶は、今も新しい。
というお話に感銘を受け、いい写真、正しい写真について考えされられた。
撮りたい!と思ったものを撮ればいいし、ピュアな心で撮られた写真は、見る人に考える暇を与えることなく、感動を与える。
写真って、もっと自由でいいんだよな。
立木さんによる写真展✖️トークイベントの紹介記事はこちら
イベント特別座談会「旅と創作。」についてはこちら
どう撮るか、「何を」撮るか
ここまで長くなってしまったが、つまるところ、いい写真の定義は目的や見る人により、変わり続けると思う。今は意味をなさなくても、周りの環境や情勢が一度変われば、貴重な価値を持つことになる。
だから、もちろん「構図は命!」だけど、それだけで写真の良し悪しに囚われる必要はないのでは?と思っている。
その証拠に、コロナ禍の前後でマスクをしている写真としていない写真は、時代の変遷を物語る大きな材料になっただろう。これは、構図というよりも、マスクをしているか、していないかの違いが、一つのメッセージになったりする。
家族写真もそう。
どれを見返してもマスクをしていたり、自分が大きくなってからは、じーちゃんやばーちゃんと一緒に写ってる写真がなかったり。
構図よりも、そもそも、「時を撮る」ことに向き合っているかどうか、が大切だなと思う。
人が作り出す建物、景色は、時間やお金をかければ再現することができる可能性が高い。しかし、家族との時間は、どれだけ大金を払い、神に願い続けても、二度と同じ時を過ごすことはできない。
そんな一瞬、一瞬の積み重ねを心に留めておくために、ぼくの中では写真を撮ることが大切な人生の使命になっている。だれに見せるでもなく、評価してもらいたいわけでもない。
じーちゃんやばーちゃん、親や兄弟、自分が生きた証として、これからも構図より「時」を撮ることに向き合っていくと思う。
最後に、じーちゃんとばーちゃんへ
最後は超個人的な思いをつらつら書きましたが、ここまで4時間以上、この記事に向き合えたことで少し気持ち整理できた気がする。
思いを言葉にするって大切だな。