育児キロク#02 産まれて2ヶ月間離ればなれの子育てが始まる
こんにちは、しおりです。
2021年7月に常位胎盤早期剥離をきっかけに新生児仮死状態で産まれた長女の出産育児キロクを綴っています。
今回は、奇跡的にも一命をとりとめた娘の出生後2ヶ月に渡る闘病生活と、その時に感じたことや、産後うつについて書きます。
娘を追いかけ転院
娘は高度な医療を受けるために、出生後すぐに県立のこども病院へ転院した。
出産したはずなのに娘が横にいない。
産後しばらくは正直「悲しい」とか「寂しい」という感情はなくて、なんとも言えない複雑な気持ちだった。
私は産まれた娘をあれから1度も見ていないし、抱いてすらいない。
自分の体調にも余裕がなかったし、看護師さん達もバタバタして話かけにくい雰囲気もあった。
出産して3日目の昼。
私も県立病院へ転院。帝王切開の傷の痛みで歩くのもやっとだが、そうも言ってられない。
夫が運転する車に乗り、車内上部にあるグリップを掴み、体を極力動かないように試みるも腹部が引き裂かれるような激痛が走る。
痛みに耐え20分ほどで到着。コロナ禍もあり夫とはそこで別れた。
県立病院へ着くなり、看護師さん達は「大丈夫?」「辛いよね」と、とても優しく接してくれた。
私は「なんて優しい人達なんだ」と素直に受け入れていたが、あれは気遣いだったのだ、と娘の状況を聞かされたあとに知る。
NICU闘病生活が始まる
担当医師より現在の病状や今後の治療方針などを説明を受けた。
この時は夫も一緒に付き添ってくれた。
娘の病状と今後の治療方針
娘はおなかの中にいるときに、胎盤から十分な酸素が行き届いていなかったために、脳室内が出血。さらに水頭症も併発していた。
一命をとりとめることはできたものの、今後植物状態になるかもしれないし、どうなるか分からないと言われた。
話を一通り聞くも、一瞬理解ができなかった。
背を向けていた現実をひしひしと感じ始めたのか、涙は出てきた。
入院中は20分程度であれば面会可能だったため、娘に会いに行った。たくさんの管につながれ、生かされている状態だった。
NICUではノートを通じて看護師さんとお母さんとでやりとりをする。
保育園でいう「連絡帳」のようなものだ。
日々感じたことを日記のようにして書いていく。看護師さんはこの日の赤ちゃんの様子や写真を貼ってくれる。
そして入院中は家族に簡単に会うことができないご時世だったため、夫との会話もできず、ただ自分の中でモヤモヤとした「何か」に胸をえぐられた気持ちでいた。
娘の入院中に母ができること
私は娘を残し先に退院した。
3歳になったばかりの長男が嬉しそうに迎えてくれた。
入院中息子を見てくれた義母は干渉するタイプではなく、あれこれ聞いてくることはなかった。
私が娘のためにしてあげられたことは2つ。
①毎日母乳を届ける
②神頼みする
まず毎日3時間おきに搾乳。夜間は自分でアラームをかけ、電動搾乳機で搾乳をする。
静まりかえったリビングで、「ブッ、ブッ」と搾乳機の音が鳴る。
母乳がなかなか出ず、泣きながら搾乳した日も少なくないが、時には夫も横にいてくれた。
彼は育児休業を取得してくれたのだが、まさかこのような形でサポートするとは思わなかっただろう。
それでも夜中にひとりじゃなかったのはとても心強かった。
搾乳した母乳を毎日病院へ届けるのだが、
1階にいる守衛に預け、帰る。これだけ。
面会禁止となっていたため、顔を見る以前に、母親の私ですら病棟に上がらせてもらえなかった。
何もできない、不甲斐なさを残し、帰路につく。
その前にせめて神社へ行ってお参りしよう。と思いつき、
住宅街の中にひっそりと佇む神社へお参りした。
藁にもすがる思いだった。
そんな思いが通じたのか、娘の状態は安定。自発呼吸ができるようになり、生後20日には人工呼吸器を外すことができ、初めて抱っこをした。
さらにシャント術といわれる水頭症の治療を行う予定だったが、腰から穿刺をすることにより、脳に溜まっていた髄液がひけたため手術を免れることができた。
不安の中退院
NICU,GCU合わせて2ヶ月間の闘病の末、自宅に帰ることに。
娘の場合、医療ケアを要しない。そのため特に気をつけるべきことはなく、けいれん予防薬の服用のみ。
とはいえ、いつ発作が起きるかもわからないし、24時間体制で医師や看護師にお世話になっていたものだから、正直育てられるのか不安でしかなかった。
母のココロ~産後うつと言われて~
産後に行った検診の際、「エジンバラ産後うつ病質問票」というものがあり、いくつかの質問に答える。
正直、このような質問でうつ病なんて診断できるのか?と半信半疑だったが、見事にひっかかってしまった。
質問票を書いたあと、看護師と時間をかけて話をした。
「あの時もっと早く病院へ行っていれば」
「私のせいで娘はこんな危険な目にあってしまった」
「苦しい。いなくなりたい」
思っていることを初めて言葉にして、涙が止まらなかった。
専門医へ紹介を受けたが、私の場合は行かなかった。
他人(医師や看護師)に話したら楽になることは今回話したことで気づくことができた。
とはいえ、根本的な解決にはならないと思い、後日夫に本音を話した。
感じたこと
こうして「話す」ことが私にとっての一番の薬であり、
向き合うほど勇気のいることは無いなと実感した。
娘が危険な目にあった現実は変わらないし、
今できること、してあげられることに目を向けようと視点を切り替えられることができた。
できることは限られているが、娘の可能性を信じていくしかないと思った。
娘は入院中から理学療法士によるリハビリを行っており、今でも継続して行っている。
次回は娘のリハビリの様子について書きたいと思います。