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落語のエッセンスを抽出して付け足した、本当にいい改変

小古今亭志ん朝師匠の「柳田格之進(碁盤斬り)」をYouTubeで鑑賞した。時系列でいうと、白石監督の「碁盤斬り」を鑑賞してからのことだ。

小説版は加藤正人(脚本担当)が書き下ろしたらしい。とにかく、どこなとしゃぶりつくせるお話なのだ。

古今亭志ん朝師匠の「柳田格之進(碁盤斬り)」は復讐劇というよりも人情もの。映画で言うところの柴田兵庫(斎藤工)、お康(小泉今日子)、長兵衛(市村正親)は出てこない。これは、映画・小説のオリジナルなのだろう。※徳次郎(音尾琢磨)と弥吉(中川大志)は落語版の番頭というキャラを二つに分けている。

今でいう、原作改変でいうことはほとんど感じず、肉付けと格之進のキャラづくりのための深めの設定が作り込まれているだけだ。落語版では、番頭が軽はずみに「首を召しませ」のくだり、実際に「首を召される」のくだりが笑える。酒を酌み交わす番頭と格之進、「首はよう洗っておけ」のあたりで落語では笑いが起きる。シリアスでいながら、どこか平和なエッセンスがながれている古典落語の人情噺。そこを格之進(草彅剛)のストイックなキャラクタ―設定で、作り変えている。つまり、落語にある格之進のちょっとチャーミングな印象を、捨てているということだ。

剛直な性格、曲がったことは嫌いな格之進を煮詰めた感じが映画版なのだ。
落語版では格之進は、浪人から三百石のお抱え武士に出世する。羽振りもよくなるのだが、この時点でお絹の身請けはできないものかと。江戸初期で1両10万円ぐらいだから、50両で500万円。

百石で1000万円ぐらいのお給金扱いで、税金払って残りは500万円ほどだとすると、三百石で手元には1500万円。家臣なんかがいたりするのかな、お絹を身請けできそうなものだが。。。

落語版では、萬屋が吉原にお絹の身請けをするが金額はわからない。いずれにしても、映画版も同じくお絹の身請けをする。落語版ではどうも、お絹は現場に出ていたと思われる。遊郭に出たかどうかで、お絹の怒り具合もかわるものだ。このあたりは、落語版では古今亭志ん朝師匠が、語りでお絹の気持ちを今の女性(演じた当時)だったら許さないねぇ、って言ってたのが面白かった。

原作のある映画なんかは、小説やもととなるものを見て・読んでからだと映画に対する構えが強くなる。もしかしたら、敵意なんてものが芽生えがちだ。それも映画の愉しみ方のひとつだと思うのだけど、僕はどうしても疲れちゃう。その世界観を愉しむものとして、映画や原作小説、今回は落語、みたいなものが混沌と置かれていて、どんどん展開していく(映画を観たら、次は小説/小説を読んだら、次は映画)のがいいと思う。

小説・映画は尺と予算が違うものなので、まったく同じになることはない。同じになんてできっこないともいえる。だけど、そこに原作へのリスペクトがあるかどうか、これが大切なんだなと。

基本的に改編については制作側で合意していればいいことだと思う。逆に合意なき改編は、原作者にも、ファンにも失望と絶望を与えてしまう。

この映画の場合、古典落語が原作にあたるが落語は台本がないと聞いたことがある。師匠から話を聴いて、覚えて、自分なりにアレンジをしてという繰り返しで受け継がれていくらしい。今は録画媒体が普及しているから、ちょっと状況も変わると思うけど。

つまり、多少のエッセンスは変わりながら受け継がれてきたのだろうと。一言一句同じ状態で受け継がれたとしても、落語導入部の枕のつくりかた、呼吸の間合い、演じ分け、まぁ名人といわれる師匠のみなさんでもみんな同じ落語になるってことはないのだし。という点で、「碁盤斬り」はそもそも改編を受け入れるだけの度量のあるお話だったってことだ。

映画の宣伝で、草彅剛が柳田格之進を引きずってはいなかった。クランクアップしてから時間が経っているだろうし、役も抜けているのは当然だと思う。タレントとしての草彅剛がいつもどうなのかは知らないのだけど、この「役を引きずらない、引っ張っていない」のってカッコイイと思った。ただ演じているだけで、役の気持ちになろうにも、時代背景も違ってしかも侍(浪人)とあれば、役にスッポリというわけにはいかないものだ。

今から振り返ると、映画のストイックなキャラクターとは違う印象だったが、こういうものを期待してはいけないと常思う。原作があるとなおさらで、そのキャラクターをキープして宣伝をして欲しいなんて意見もあるだろうけど、別物・フィクションと捉えたうえで、エンタメを愉しむことがぼくたち観る側に求められる基礎能力のようにも思える。

だから、逆も然りで、タレントとしての個性の部分が映画ではかき消される役どころもあると思う。今回の草彅剛の役どころも同様だ。すぅーっと自然にタレントとしての個性がかき消される映画やドラマは、没入感が高いと評価できる。

という点において「碁盤斬り」は非常に没入感が高い映画だったし、登場人物のすべてがこのお話の中でだけ存在している人という観かたができた。

白石監督がカメラワークをどこまで指定しているのかわからないけれど、画面の奥になにか潜んでいるような、常にざわざわする感じだった。このあと何かが起こるみたいな印象。

時代劇のいいところが全部でている「碁盤斬り」ぜひご覧ください。


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