エゴ(欲)とは何か?
質問箱に「欲は悪いものですか?」という質問をいただきました。「エゴ(欲)」っていったい何でしょうか?それは究極の問いかと思います。
世の中、「覚り」というものを「エゴ(欲)をなくすこと」のように勝手に思い込んで、「人間にそんなことは絶対に無理だ」と考え、エゴ(我欲・保身・虚栄・怠惰)に埋没しているNPCばかりです。それは人生という愛と勇気が試されている覚り(魂の成長・みんなの幸せ)のRPGにおいてクリアとは真逆のベクトルにあるのに、エゴを満たすことが人生の目標みたいになっているのです。
そして覚りに向かおう・世界を救おうとする人に対して「聖人を気取ってるけど、どうせお前もエゴだらけなんだろう?」と決めつけてあら捜しをして誹謗中傷し、また無視を決め込むのです。それはそうしないと覚りを早々に諦めてエゴに埋没している自分を正当化できないからでしょう。
特に僕などは「メシア」などという偏見の強い言葉で人を覚りに導こうとするためにその格好の標的・餌食にされてしまうんですね。誹謗中傷してくる人は僕の言ってることを全く理解しようともせずに勝手な思い込みだけで叩いて来るので議論にならないのです。
しかし僕はエゴ(欲)を否定しているのではなく、それをなくそうとしているのでもありません。
我々のいるこの世界は仮想現実であり、認識主体者の数だけ宇宙があり、それが重層しているのです。それは量子力学的にも明らかになってきていることです。そしてそれは存在する一人ひとりをそれぞれ主人公として同時に成立させるための仕組みであり、僕らは全ての存在の根源である創造主の分け御霊であり、創造主が自分(の分身)を主人公としない物語など作るワケがないのです。だからこの仮想現実RPGの世界にログインできている時点で、本当は誰でもプレイヤーであり主人公なのです。そしてRPGというものが自分のいる不幸な世界を救うシナリオになっているのは当たり前のことであり、主人公はメシア(救世主)なのです。
メシアというのは完璧な聖人などではなく、僕も自分を聖人などと思ったことは一度もないです。もしメシアが一般にイメージされるような、エゴがなく罪を犯さないような聖人ならエゴ(我欲・保身・虚栄・怠惰)により悪事・不幸に流される人間の気持ちがわからず、見下したり責めたりして許せず、誰の魂も救えないでしょう。
エゴというのは「良い」とか「悪い」とかいう人間の解釈を超越して存在しているものであり、人間が人間である限り決して失くすことはできません。
エゴと愛は二元的なものであり、コインの裏表のように・磁石のSN極・電気の+-極のように、片側だけでは(この次元においては)存在し得ないのです。
この世界はそのようにすべてが二元的(陰陽)に作られています。なぜなら人間とこの世界は「価値を経験的に知るため」に創られたものであり、一元的では位置を確定できない=価値を知ることができないからです。価値を実感として知るためには、ポジティブ・ネガティブ両方を経験的に知る必要があり、我々はそのために生まれて来たのです。不幸を経験せずに幸せなど実感しようがないということです。
どんなに素晴らしい概念も、経験を伴わなければただの言葉に過ぎません。愛という概念も言葉で説明されても価値がありません。愛の価値を経験的に知るためにはその対極にあるエゴ(による苦しみの経験)の存在が必要不可欠なのです。
冒頭に書いたように、世の中の多くの人はまるで「エゴを失くすか、エゴのために生きるか」の二者択一しかないかのように考え、「人間なんてみんなエゴ(我欲・保身・虚栄)のために生きているし、エゴをなくせるわけなんてない。だから自分もエゴのために生きるのは間違いではない」と勝手に結論づけて開き直り、エゴに埋没する自分を正当化しながら生きています。しかしそれはとても短絡的で極端な考え方であり、不幸の元凶とも言えるものなのです。
エゴというのは成長課題であり、エゴを乗り越えなければ魂が成長することはなく、決して愛(幸せ)には辿り着きません。
すべての存在は一つ(ワンネス)であり、創造主自身です。その創造主を大きな磁石の塊だとイメージしてみて下さい。創造主は唯一かつ完全無欠の存在であり、それ以外の存在は存在しません。しかしそのままでは存在意義・存在価値がなく、究極に孤独で退屈です。
だから創造主はその己の身(意識)を粉々に砕き、それぞれに分け御霊を与え、分離意識と個性を与えました。その「自分とその他の存在は違うものだ」という分離意識が与えられることで、この世界という物語(愛憎劇)は存在し得ているのです。
愛が引力であり、エゴが斥力(反発力)です。愛とエゴは磁石の両極のように、片側だけでは存在し得ないものなのです。分離せず、反発せず、引力だけが存在するということはあり得ません。
引力と斥力(反発力)はイコールに作られているのですが、それでいて我々はそれぞれに与えられたお互いの個性を保ったまま(お互いの存在を尊重しながら)愛(引力)によって、磁石にくっついた砂鉄のようにまた数珠つなぎに一つになれるのです。そしてその物語は全てアカシックレコードに記録され、流れる砂絵のように永遠に繰り返されるのです。「なぜそんなことを永遠に繰り返さなければならないのか?」と思われるでしょうが、それなしには「存在」に「意義」は生じないのです。
エゴというのは分離意識であり、それは元々一つである我々の意識を分離するために必要悪のもので、それが自己保存欲求なのです。しかしそれにより人間は他の個体の利益を害してでも自分という個体の利益のために思考・行動してしまうのです。本当はみんな一つであり自分自身が創造主なのだということもすっかり忘れて。
人はエゴなしに生きることはできません。食欲や睡眠欲がなければ生きられませんし、性欲がなければ命を繋げません。そもそも何かを望む(願う・思う)ということ自体がエゴを根幹としており、生きたいという意欲が既にエゴであり、死にたいと願うことさえもエゴなのです。だからエゴがない人間というのは存在し得ないのです。
悪いのはエゴそのものではなく、「他の存在から奪い取ってでも自分が満たされたい」とか「いくら得ても満たされない・不安だ」と考えて、キリなく求め続ける「エゴの肥大・暴走」なのです。それを僕は「エゴの悪魔化」と呼んでいます。資本主義というのはエゴを悪魔化させるものであり、ゆえに今の人類はいくらあっても足りずに奪い合い・争い合い、資源を枯渇させ、環境を悪化させ、このままいけば自滅することは自明なのです。
しかし世の中の殆どの人がそうした世界(RPGの舞台設定)に絶望しつつ、それを言い訳に自らそのシステムに隷従し、変えられるなんて考えもせず、己のエゴに埋没しています。それではただのNPCでしかなく主人公(主体者)には成り得ません。「生まれの格差について(陰謀論)」に書いた通り、人生はあなたを主人公とするRPGであり、世の中が魔物に支配される一歩手前のディストピアから始まるのは当たり前のことなのです。それなのにみんな絶望的な世の中を常識のように考え、ただ世の中に絶望して魔物に怯えてその支配に甘んじながらただ破滅を待つように生きるNPCのようになっています。主人公として生きるには、「それが常識だから」などと他人(NPC)は一切言い訳には使えないのです。RPGでゲームの設定に文句を言ってもゲームは進まないのです。
エゴ同士が磁石の同極のようにお互いに反発し合うことこそが人の争い合い・奪い合いの根源です。そしてそのエゴの反発力は連鎖することで電磁石のようにとても強力になります。それが戦争など大きな諍いごとの根源なのですね。
創造主は言いました。正義=エゴであると。自分がいくら正義だと思っても、相手にも相手の正義があるのであり、それは必ずぶつかり合うのが必然です。その正義という錦の御旗はエゴの建前であり、本当はその下では必ずみんながエゴによって我田引水をやっているのです。アメリカの他国支配の仕方などはその典型です。正義というのは人々のエゴを正当化して連鎖させ、凶悪な悪魔に変えるためのブースターのようなものなのです。純粋な悪はみんなが嫌がるので連鎖せず単独犯にしかなり得ません。正義(エゴ)の連鎖が巨悪を生むのです。
だから我々は常に正義(何が正しいか)より愛を優先させることが大事なのです。自ら愛を実践してでワンネス(自分=他人)の目覚めを連鎖させていくのです。そうすればその愛は指数関数的に広がり、戦争などは起こらなくなりますし、いつか必ず世界は救われるのです。
何が愛で何がエゴなのか、何が正しくて何が間違っているかは、その考えや行動が分離・反発・不幸をもたらすものなのか、融和・みんなの幸せをもたらすものなのかを考えればすぐわかります。
あなたという創造主の子に与えられた、あなたを主人公とするRPGは、完全にあなた次第に作られているということを絶対に忘れないで下さい。
既にエゴの連鎖の先で悪魔化している戦争指導者とその国や民族や団体を批判・攻撃したところで戦争はなくなりません。あなたがプーチンやイスラエルやハマスを批判しても何の効果もないどころかかえって反発を生み、また己の心の波動を下げるだけで逆効果です。「音と水の存在意義」にも書いた通り、相手がどんな極悪人だろうと、あなたが発した言葉と思念の波動を一番近くで受けて影響を受けるのはあなた自身なのですから。だから悪魔に犯されている人達をあなたのポジティブな波動の連鎖で浄化して下さいね。すべては己の心が作り出しているものなのですから、敵を外にいると思って攻撃せず、まず愛によって己の心の中の悪魔と闘って下さい。エゴ(正義)ではなく愛を連鎖させて下さい。
ビートルズが歌で愛や平和を訴えながらバンド内で争いばかりだったことがよく揶揄されますが、主人公である自分が愛を実践できていなければ、どんなに正義を主張しようと世界は平和にならないのです。正義はエゴであり斥力(反発力)なのですから当然です。
我々には愛と成長の物語を紡ぐために、それぞれ個性というものが与えられています。そしてそれは欠点や過ちと不可分です。我々はお互い何かが欠けているからこそ、それを満たそうとするエゴが生じ、それをお互い満たし合うことで愛を生み出すことができます。古事記のイザナギ・イザナミの国生みがそれを象徴しています。だから我々という存在は著しく不完全に見えて完全なのです。
「エゴの悪魔化」を防ぐ唯一の方法は、自他のエゴを責めてエゴそのものをなくそうとするのではなく、エゴへの「執着」から離れ、自分のエゴより相手のエゴをほんの少しだけ優先して満たしてあげることであり、それを連鎖させていくことです。そしてそれこそが愛なのです。決してエゴそのものを捨て去ることではありません。捨て去るべきは執着(結果への期待・損得勘定)の方です。
ペットの猫だって、彼らは別に人間に頼らなくても生きていけるのに、ご飯などを求めて甘えてくれます。そして人間は損得勘定なくただ純粋に猫が求めるものを与えてあげて猫のエゴを満たしてあげることで猫を喜ばせることができます。そして猫は食う寝る遊ぶだけで人を幸せにしてくれます。だからこそ世話をする喜びがあり、愛が生まれるのです。もし猫に何のエゴ(欲)もなく、人間に対して何も求めてくれなかったら、人は猫と愛し合うことはできません。それは人間同士でも全く同じだという話です。
しかし人は人間同士となると急に「働かざる者食うべからず」という愛のない考え方になります。自分が苦労してお金のために働いているから、他人もお金のために苦労しないと許せないといった狭量で愛のない考え方になるのです。
そして「人の役に立つこと」「自立した人間になること(迷惑をかけないこと)」を美徳とし、人生の目標みたいにしてしまいます。それで他人に迷惑をかけることを恥だと考え、他人に頼られることを迷惑だと考えます。そして能力を価値とし、いつも他人と自分を比べ、他人に自分の能力を示そうとして他者評価依存症となり、他人を羨んで劣等感に苦しんだり、他人のあら捜し見下したり責めたりすることで何とか傷ついた自尊心を補おうとして、他人とぶつかり合い傷つけあってばかりいてみんな鬱になり、最後には「迷惑をかけないように」などと考えて死のうとしたりします。そうやって人の役に立つどころか自分も周囲も不幸にする真逆の存在になっていることにも気づかずに。他人のエゴを見下したり責めたりすることによって自尊心は決して上がりません。我々は元々一つなのですから、自尊心と他尊心は同時にしか上がらないのです。
「人の価値とは?」に書いた通り、我々はいつか年老いて、人に迷惑をかけるだけの存在になります。みんな例外なくそういう未来が待っているのです。その時にどうやって自尊心を保つのでしょうか?
エゴまみれで何もできず迷惑ばかりかける赤ん坊が一番人を幸せにしてくれています。我々の価値は能力にあるのではありません。存在そのものに価値があるのです。
僕らはエゴを愛によって乗り越えることで愛し合えるように作られています。エゴというものは我々が乗り越えるべき成長課題であり、我々はエゴという決して外せない支柱があるからこそ全力で愛に向かっていけるのです。エゴという支柱がなければ我々という存在は分離されず、最初から一つの存在ということになりますから、愛という引力は生じ得ないのです。「人間」という言葉は人(エゴ)と人(エゴ)の間をつなぐものが愛(存在意義)だからできた言葉です。仏教の縁起思想の通り、我々の存在(意義・価値)は関係性の中にあるのです。
仏教ではよく「人は1mほどの長い箸を持っていて、天国ではお互いにその長い箸で食べ物を食べさせあってみんなが幸せで、地獄ではお互いその長い箸で自分の口に入れようとして食べれずみんなが飢えて不幸になっている」というような例えが使われるのですが、我々の世界はまさにそのようになっているのです。我々は自分次第でこの世界を天国にも地獄にも変えられるということです。お金という権力分譲券・強制力を使って己のエゴ(我欲・保身・虚栄)を満たそうとしてばかりいたら世界は地獄に変わります。
世界の本質はワンネスであり、すべての存在は同一で「私=あなた=世界」です。それなのに世界の中で自分という個体だけに都合の良い現実を引き寄せようとすれば、反動が起きるのは当たり前のことなのです。だから「引き寄せの法則の真実」にも「引き寄せるなら世界の平和と幸福を!」と書きました。
科学的にも、ギャンブルをすると脳は「勝っても負けても」ノルアルドレナリンが分泌されて海馬がダメージを受けて縮小し、鬱になりやすいということがわかっています。しかしそれはギャンブルで勝った時(我欲が満たされた時)に脳にドーパミンという快楽物質も分泌されることで気づけないようになっているのです。
ワンネスである我々は深層意識ではみんなつながっていて、意識の深い部分ではエゴ(利己)動機の行動を「醜い」と感じ、愛(利他)動機の行動を「美しい」と感じているのです。だからエゴ(利己)動機の行動ばかりしている人は、それによってどれだけ物質的・権利的に得をしようと「自分自身を嫌いになる=不幸になる」という最大の損をしているのです。「自分が大嫌いなのに幸せ」とか「自分が大好きなのに不幸」とかはあり得ないのですから、エゴを動機に行動すること自体が不幸であり、それでどれだけ物質的・権利的に満たされて他者評価を得たとしても、決して幸せには成り得ないのです。
資本主義というのは「人はエゴのために生きる生き物である」ということ肯定してそれを前提として出来上がっているシステムです。そこでは基本的に合法でさえあれば(悪事がバレなければ)「エゴの充足のために生きること」が完全に肯定(むしろ推奨)されています。
しかし資本主義の本質はギャンブルであり「椅子取りゲーム」のごとき適者生存の価値観が基盤となっているものです。資本主義が常識である世の中にいるとものごとを何でも損得勘定で考えるのが当たり前になってしまうのですが、世界の本質とはワンネスであり、我々は損をしても得をしてもダメージを受けるのですから、損得勘定で考えること自体が不幸の元凶なのです。
資本主義(ギャンブル・損得勘定)の仕組み・価値観の中では、人は麻薬中毒のようにエゴ(我欲・保身・虚栄)を追い求め、どんどん視野が狭く思考が短絡的になって目の前の事・自分のことしか考えられなくなり、エゴ(我欲・保身・虚栄)の充足を求めるだけのエゴのお化けになり、得をしようが損をしようがどんどん深層心理で自分を嫌いになり、鬱になってしまうのです。(何でも平等に分け合うアフリカの部族には鬱になる人がいないそうです)そしてこれだけ資本主義が限界に達していることが明らかになっていても、そのシステムに抗おうなんて考えもしないNPCと化しているのです。
しかしそれは人生というRPGの初期設定であり、それがなければあまりにも簡単にワンネスが実現されてしまうので、人間(分離意識)を作った意味がなくなってしまうのです。そしてこのRPGをいつかクリアできることはそれを親に与えられる前(ゲーム制作時点)から決まっているのです。だから何の心配も要らないのです。
ただそれは初期設定のまま何もしなくても良いということではなく、まず自分自身がこのRPGの主人公であることに目覚め、早く悪役NPCを卒業することが大事なのです。
欲の充足(快楽)と罪悪感・羞恥心はセットになっています。だからあなたが欲を悪いもののように思うのも自然な事です。ただライオンがシマウマを食べても罪悪感は感じませんし、他のライオンの前で交尾しても恥は感じません。人間だけが欲に対して罪悪感や羞恥心を感じるように作られているのです。なぜでしょうか?
それは「罪と恥の存在意義」に詳しく書いた通り、罪と恥はお互い許し合うことでより深く愛し合えるように創造主から人間にだけに愛によって与えられたものだからです。しかし人間はお互いの欲(罪と恥)を責め合って苦しむようにも初期設定されています。そうでないと欲(罪と恥)を許し合い補い合う愛に価値は生じないからです。
例えば自分にも性欲はあるのに、他人の性欲は恥ずかしく罪深く醜く見えて、バカにしたり責めたりしたくなるでしょう?そのように欲を悪いものだと思う事自体が人間に与えられたエゴであり、エゴというのは基本的にそのようにできているのです。
愛し合う者同士はその性欲に付随する罪と恥を許し合い欲望を満たし合うことで深く愛し合えるようになっているわけです。だから不特定多数と簡単に寝てしまうような恥知らずでは誰かと深く愛し合うことはできません。まぁ世の中そういう人もいるから人生という愛憎劇が面白くなるのですが。
我々にはたくさんの異性とS〇Xしたいというエゴがあり、自分以外とS〇Xして欲しくないというエゴもあります。そのようにエゴはお互いに衝突するのが必然なのですが、そのエゴをお互いに満たし合うことが愛なのです。カップルそれぞれに愛の表し方は違って良いのですが、愛する人以外とS〇Xしないことはひとつの愛の形です。でもその愛(忍耐)はたくさんの異性とS〇Xしたいというエゴを乗り越えたものでなければ価値がありません。そして家庭をないがしろにしない範囲での旦那の多少の浮気や風俗通いなどには、例えその時は怒ったとしてもいつかは許してあげるのも愛の形のひとつです。それを良いとか悪いとか判断するのもエゴであり、少なくとも外野がとやかく言う事ではありません。
人間はみんなエゴは悪い・醜いものと深層心理で感じているのですが、それに対して「エゴは誰にでもあるものだから」と許し・耐え忍び・満たしてあげることが愛なのです。それなしにはエゴによって自分も他人もどんどん嫌いになってしまいます。
ただ「許す」というのは「どんな嫌な事をされても拒否せずに許さなければいけない」という意味ではありません。本当に嫌な事はきちんと嫌だと拒絶の意思を伝えることも愛です。すべては一つ(ワンネス)なのですから、自分への愛を欠いた他人への愛というのはダメなのです。
ただ嫌なことをされた過去をいつまでも許さないというのでは人生が恨みで満たされて結局自らを苦しめることとなるだけです。被害者意識というのは自分の成長のために与えられている課題(カルマ)を相手が解決すべき問題だと考えることであり、それは成長に反する意識ですから、魂の成長のために創られた人生というRPGにおいて不幸に導かれるのは当然のことなのです。
ゲームでNPCから嫌な事をされてNPCを恨んでもゲームは進みません。どんな嫌な出来事でも、それはちゃんとシナリオ上理由があってクリエイターにより愛によってもたらされた課題であり、それをもたらす役割を果たしただけのNPCを恨んでも意味がなく、課題を乗り越えて行く以外にないのです。それは現実というRPGでも全く同じだということです。
「片思いの存在意義」にも書きましたが、愛は他人が強要できたら存在意義がありませんから、愛を強要すると必ず相手の心が反発するようにできています。もしあなたの愛が相手から反発されるのなら、それはきっと愛ではなくエゴであり、相手に愛を強要しているからでしょう。感情は無理やり強要・束縛すれば必ず逆の結果が待っているのです。愛は相手を最も自由にするものです。こちらがこれだけ愛しているのだから、こちらも愛されるのが当然、浮気されないのが当然などという感じで相手に愛情を強要せず、一切見返りを求めずに愛を与え続けることを我が喜びとし、相手を自由にした上で与えられる愛を心から有難いものだと思って心から感謝することです。
全知全能の創造主にとってすべてが思い通りになることが地獄のように退屈だからこそ、この思い通りにならない世界を創って、能力が低く愚かな人間として成長・愛の物語を経験しているのです。我々が何かを欲するのは、この世界が思い通りにはならないのが基本設定だからです。「思い」というのは思い通りにならないからこそ「このようにしたい」「このようになって欲しい」と生じるものなのです。すべてが思い通りになったら思うこと自体をやめてしまうでしょう。思い通りにならない世の中で、失敗を繰り返し、試行錯誤することこそがこのRPGの楽しみなのです。だから思い通りにならないことで落ち込む必要など全くないのです。
エゴ同士は反発し合いますが、相手のエゴの極に愛を向けてあげられれば反発することなく我々は繋がれます。そして磁石と違って同じ極でも愛同士は反発しません。なぜなら本当の存在は愛一元であり、すべてが二元的に作られたこの世界を愛一元(ワンネス)に戻していくことこそが我々に与えられたストーリー設定の根幹だからです。
そして「人の価値とは?」にも書いたことですが、現代の「適者生存=不適合者排除」の価値観では、働いて社会貢献してお金を稼げない人間は社会のお荷物であり排除すべきという考え方になってしまいます。しかし誰でも歳をとれば介護が必要になりますし、その前に障害やケガや病気で働けなくなりお金がなくなる可能性もあります。今現在どれだけ有能で他者評価を得てお金を稼いで成功していようと、それを失って必要とされなくなりお荷物になる未来に恐れおののきつつ目を反らしながら本当に幸せというのはありえないのです。だから僕らは適者生存から共存共栄の価値観・お金ではなく存在に価値があるという価値観にシフトしていかなければなりません。我々はそういうシナリオの神話の中を生きているのです。
どうか一過性の欲望を満たし続けることを幸せと勘違いしないで下さい。エゴ(我欲・保身・虚栄)はどれだけ追い求めても尽きることがなく、他人と反発し合い、愛を失うのが必然です。己のエゴを満たし続けることでは人は永遠に幸せにはなれないのです。
欲を捨てようとするのではなく執着を捨て、損得勘定(結果への期待・見返りを求める心)を捨て、常にエゴ(正義)より愛を優先し、自分のエゴより出会った人のエゴを少しだけ優先して愛で満たしてあげて下さい。そして人から愛によって何かしてもらったら、例え気に入らないことでもその気持ちに対して心から喜んで心から感謝し、それを素直に表現して相手を心から喜ばせて下さい。そうするだけで抜群に人からも神(運命)からも愛され、愛に満ちた人生になりますから。
最後に、以前にも書いたことですが、大事な事なのでもう一度書きます。
創造主は言いました。「樹が鳥を愛するように人を愛しなさい」と。あなたの中にある覚り(真理・愛)の種は最初は見えないほど小さかったとしても、日々水やりを怠らずに育てて実を豊かに実らせ、その愛を決して相手に押し付けることなく、ただただ無償で奉仕し、鳥たちが喜びに歌うのを我が喜びとするのです。そうすれば鳥たちが覚り(真理・愛)の種をどんどん運んで世界は覚り(真理・愛)に満たされ繁栄していくのでしょう。