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書評:バルザック『ゴリオ爺さん』

バルザックで「愛に過剰はあるのか?」を考える

今回ご紹介するのは、フランス文学よりバルザック『ゴリオ爺さん』。

本作のストーリーは、ゴリオ爺さんと呼ばれる老人が2人の娘を溺愛するあまり、2人が利己的で虚栄心に満ちた人物に育ってしまい、自らも貧窮のどん底にまで行き着き絶望の中孤独に没する、というものだ。

一歩距離を置き冷ややかに見れば、ゴリオ爺さんの溺愛が招いた結果であるのは明らかだろう。ゴリオ爺さん自身も、生死の淵において最後にそのことを自ら認めるシーンもある。

しかし、「度を越した甘やかしが子供を利己的にし、結果親も不幸を見る」という教訓を読み取るにしては、ゴリオ爺さんはあまりにも悲劇的過ぎるように感じた。

ゴリオ爺さんの愛情は本物である。

愛情の表現に、上記の教訓のような打算的な自制心が必要なのだろうか。
愛情にバランスが必要なのだろうか。
人間はそんなに情けない生き物なのだろうか。

作品の時代設定は、ナポレオン没落以降の王政復古時代。
スタンダールも『赤と黒』で取り扱った時代であり、一般に、フランスにおいて最も虚飾が旺盛した時代の1つであると言える。2人の娘の様子を見ていると、本作はそうした時代へのアイロニーとも取れるような気がする。

しかし、このストーリーをこの時代の特殊性のみに還元してしまうことはもったいないことだ。

利己心と虚飾は、程度の差こそあれ人間社会には必ず存在するものだ。人間社会であれば、どんな時代どんな場所でも、甘やかしすぎれば利己的で虚栄心に支配された子供が育つのはあり得ることだ。

それは頭では十分に理解できる。

それでも、ゴリオ爺さん自らが招いた結果だと断じるには、あまりにも悲劇的だと思うのだ。それほどまでに、ゴリオ爺さんの愛情は純真で無垢で一途なものだからだ。

しかし残念ながら、私がいくら考えても、この物語にゴリオ爺さん以外の悲劇の原因を見出すことはができなかった。バルザックはやはり、愛情のカルマのようなものを描いたのだろうかと思うしかなかった。

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以下は雑談。

「ゴリ」とか「ゴリオ」って、日本だとちょっとゴリラっぽいルックスの男性に付けられるあだ名として使用されたりするのではないだろうか。

代表的なのは、竜雷太ことゴリさん(太陽にほえろ!)とか、ガレッジセールのゴリとか、『スラムダンク』の赤木とか(全部ゴリで、ゴリオいないけども)。

私の小学校の同級生にも、小学1年にして早くもゴリラっぽさから「ゴリオ」というあだ名を襲名した友人がいた(見た目で露骨にあだ名をつけるって、子供って残酷である)。

なので「ゴリオ爺さん」と聞くとついつい友人のゴリオのことを思い出す。そして彼は、子供ながらにして既に笑いのセンスに満ち溢れた男だった。

私が彼と同じクラスだったのは小学1年2年の2年間だけだったので、この思い出は2年生の時のこと。

いつものように校庭でみんなでサッカーをして遊んでいたある日、私の蹴ったボールが結構なキック力でかなり遠くまで飛んだことがあった。それを真横で見ていた小2のゴリオが私を評して一言。

「さすが飛ばし屋のジョーと呼ばれた男」

小2にしてはちょっと笑いのセンスが早熟すぎやしないかい?まあ決してセンスで独自に編み出したセリフではないのだが、このフレーズパッケージを8歳にして知り、使いこなしてくるというのは、相当将来が有望である。

実際彼は高校生の時、大阪で深夜にやっていた『爆笑BOOING』という漫才番組に、若手プロがひしめく中予選を勝ち抜き、決勝のテレビ放送の舞台に立ったのだ。

オモロイやつは子供の頃からホンマにオモロイ。そんな確信を私が抱くに至った思い出話である。

読了難易度:★★☆☆☆
ゴリオ爺さんかわいそう度:★★★★☆
愛に過剰はあるのかもしれない度:★★★☆☆
トータルオススメ度:★★★☆☆

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