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書評:ウィリアム・E・コノリー『アイデンティティ\差異 他者性の政治』

政治哲学におけるアイデンティティの双極性の超克を求めて

今回ご紹介するのは、ウィリアム・E・コノリー『アイデンティティ\差異 他者性の政治』という著作。

本著は私の読書史においても非常に難解だった部類に入る。その難解さは、カント『純粋理性批判』や柄谷行人『トランスクリティーク』に匹敵した。

今回は、本著を契機に考えた私のアイデンティティ観なるものを綴ってみたいと思う。

但し、本著のタイトルにある「政治」という言葉については少々注意が必要なので、初めにその点を補足したい。

①本著における「政治」の意味について

通常の日本語の「政治」という言葉が持つ意味で本著を読むと、はっきりいってどこが政治の話なのかわからなくなるだろう。

政治哲学においては、「政治」という言葉は非常に特殊な意味を持っている。これを説明するのは私の手に余るが、敢えて間違いを恐れずに書くならば、

◯弁証論的な論争空間
◯価値体系間の闘争アリーナ

とでもなるかと思う。

つまり、政治哲学における「政治空間」とは、絶対性を有しない価値体系同士が争う「場」を表す言葉なのだ。

②「アイデンティティ」について

「アイデンティティ」は西洋的な概念であり、日本語では「自己同一性」といういまいちピンとこない訳語が割り当てられている。辞書によると、「《他ならぬそれそのものである》という状態のこと。あるいはそのような状態を確立する際の拠り所となる要素のこと」と言った意味である。

「自分のアイデンティティ」であれば、「自分らしさの拠り所」とでもなるだろうか。

しかし仮にアイデンティティが曖昧な概念であったとしても、上記の定義の通りに捉えるならば、この言葉が指し示すところのものが人間にとって不可欠のファクターであることは、我々日本人にも納得できるはずだ。人間は誰しも、自分が自分であることを確信したいと欲求する生き物だからだ。

③「アイデンティティ」のパラドクス

コノリーが指摘するように、「アイデンティティ」という概念は、「他者」「差異」という概念との関係において逆説的な側面を持つ。

即ち、一方ではアイデンティティ(自身の独自性)は「他者」との相対において認識されるものである。つまり「アイデンティティ」は「差異」に依存することで確立されると言うことができよう。

しかし他方、確立された「アイデンティティ」を人は堅持しようと欲求する。決して必然的にではないが、この「アイデンティティ」への固執は容易に「他者」「差異」への攻撃性を伴うものに遷移し得るのだ。

つまり「アイデンティティ」は、「他者」「差異」との関係において、「依存」と「排斥」という両面性を有するのである。

④「アイデンティティ」の暴力性とそれへの応答

「アイデンティティ」は時に個人の枠を超え集団のそれとして働くことがある。この時「アイデンティティ」はヘゲモニーを獲得し、上述のような暴力性の側面がより顕著になる。

この暴力性の解体や緩和を目指した思想には様々なタイプが存在する。

1.「アイデンティティ」という概念をそもそも否定的に捉え消滅させるべきという主張

気持はわからないでもないが、上述のように「アイデンティティ」が人間にとって不可欠のファクターであるに鑑みると、こうした考え方には現実味がないと思われる。

2.「アイデンティティ」の脱政治化を目指す主張

「アイデンティティ」の重要性は認めつつも、その闘争を避けようとする考えから、各々の「アイデンティティ」の持つ「政治性」(前述の意味での論争性)を低下ないし中性化しようという立場です。
「アイデンティティ」の統合を目指す立場もここに含まんでも良いかもしれない。

しかし、「政治」が価値判断に関わるものである以上、「政治」は「アイデンティティ」同様人間にとって不可欠のファクターであり、更に「価値判断」は千差万別なものだ。

よってこの立場も私には非現実的と思えてならない。「アイデンティティ」と「政治性(論争性)」は切っても切り離せない関係にあるものだと考える。

3.「アイデンティティ」の持つ暴力性を緩和するような枠組み(「政治空間」)を模索する主張

上記二つが「アイデンティティ」そのものに対する封殺を巡る議論であったのに対し、この立場は、「アイデンティティ」が本来的に持つ暴力性など負の側面についてはディオニュソス的に肯定しつつ、それらが争う場としての「政治空間」を整備することを目指す立場である。

コノリーはこの立場に立つ。
私も基本的にはこの立場に賛成だ。

問題は、どのような「政治空間」を目指すべきか、どのようなアプローチでそこに至るか、という点になっていく。

⑤アゴーンのデモクラシー(Agonistic Democracy)

コノリーは「アイデンティティ」を巡る問題に対して、「アゴーンの政治(Agonistic Democracy)」という概念を提示する。

コノリーによると、「アゴーンのデモクラシー」とは、生にとってアイデンティティが不可欠であることは認めつつ、アイデンティティの教条化を押し止め、人間の生が変幻自在なまでに多様であることへの配慮をアイデンティティ\差異の闘争と相互依存の中に織り込ませる」というもの。

これが「アイデンティティ」そのものの脱力化、または脱構築を目指すものでないことは少なくとも明らかだろう。

問題は自ずと、「アゴーンの政治は如何にして可能か」という点に収斂されることとなる。

「相互依存への配慮」、即ち他者の尊重。

これは非常に理想主義的で、そもそも理念であり施策とは言えないだろう。

しかし政治思想に限らず思想というものは、まず「どうあるべきか」という目指すべきゴールを明確に設定し、その上でこそ初めて「そこに至るにはどうすればよいか」という手段・方法・プロセスの議論が有意義になるもの。しかも目指すべきゴールは今現在実現されていない状態が設定させるものであるから、理想主義的であって当然であり、それはまた大いに肯定されるべき特徴だと言えよう。はっきり言ってここは突っ掛かるべきところではない。

では、施策、手段・方法・プロセスについてはどうだろうか。

この点を読み解くのが本著において最も難しかった点だったのですが、コノリーは以下の二点を掲げた。

1.「アイデンティティ」の系譜学的な分析とニーチェ的な「距離のパトス」により、自己の「アイデンティティ」を相対化する思考を鍛錬すること
2.「アイデンティティ」を至上価値とせず、より高次の価値を共有化していくこと

1の解説は非常に難解であったが、2については我が意を得たり!であった。

「より高次の価値」、それは「生」である。「生命そのもの」、「生きることそのもの」といっても構わないだろう。

コノリーは言います。

「アイデンティティは、生にとって不可欠の次元。にも関わらずアイデンティティは、生の逞しさや多種多様性を決して汲み尽くしえないのである。生の賛美、生の尊厳を基底とすること。これが「アイデンティティ」の暴力性を緩和するカギになる。

ここにはあまりに論理の飛躍があること。
これは所詮信条の吐露でしかないこと。
理想主義的でむずがゆく甘ったるいこと。

私はこれら全てを受け入れる。それでも生をより高次の価値として賛美することの大切さを、高々と宣言したいと思うのである」

涙が溢れる高らかな宣言であった。

⑥主権論について

コノリーのデモクラシー論はラディカルである。様々な危機がグローバル化している現代において、国家と枠組みはもはや古いと彼は断言する。非領土的なデモクラシーが求められる時代だというのだ。

こうした言説は、直ちに「主権のグローバル的な統一化」を連想してしまうかもしれない。その連想から見れば、「アイデンティティ」を巡る文脈においては「差異」との関係・暴力性にこれほどまでにこだわるコノリーが、「主権論」においては「他者性」との関係・暴力性という問題を看過するのかと一瞬疑いたくなる記述に思えてもおかしくはない。何故なら、「主権」も「他者」「外部」があってこそだからだ。

しかしコノリーは、この乱暴さを実は十分に認識している。

彼の問題提起は、「グローバルな課題に領土的なデモクラシーという非効率な枠組みで対応しようという非現実性と、非領土的なデモクラシーという非現実性の、どちらかしかないなら、どちらを選択することが望ましいだろうか」という、現実的な選択を如何になすべきかという点にあるのだ。

これは目から鱗であった。多分に観念論に陥りがちな政治哲学を、現実の問題を解決するための地平に着地させる必要性を、コノリーが強く意識していたことが伺えよう。

アポリアに挑戦する、哲学するものの強き意志を感じた次第である。

読了難易度:★★★★☆
論旨の完成度:★★★★☆
議論の抽象度:★★★★★
トータルオススメ度:★★★★☆

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