書評:セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』
古代ピュロン主義者から脈打つ懐疑主義の源流とは
今回ご紹介するのは、セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』と言う著作。
皆様は、哲学の立場の1つである「懐疑主義」なるものをご存知だろうか。
基本的な原理や認識に対し、その普遍妥当性や客観性を吟味し、根拠のないドクサ(独断)を排除しようとする立場であるとされるものだ。
懐疑主義は、実は一般的な古代哲学と遜色ない程に長い歴史を持っており、その淵源に存在したのが「ピュロン」という人物だとされている。
このピュロンという人物、一説ではマケドニアのアレクサンダー大王の東方遠征に従軍した3人の哲学者の1人で、唯一生きて帰ったとも言われる。
インドで裸の修行僧と接触したピュロンは、一体どのような哲学を考え抜いたのだろうか。
実はピュロンは、一切書を書き残しておらず、体系的研究によって全貌が明らかとなったのは、ようやく3世紀のことであった。
①ピュロン主義について
「ピュロン主義」とは、古代ギリシアより存在する哲学的一派の呼称であり、哲学的な意味での「懐疑主義(skepticism)」と同義とされる。「ピュロン主義」と呼ばれる所以は、ピュロンが最初にこの哲学的内容を体系立てたと見られているためだ。
②ピュロンについて
ピュロンその人については、それほど多くの資料が残っていない。マケドニアのアレクサンダー大王の東方遠征に随行し、帰国後は自らの哲学に実践的な生活を送ったとされている。
③セクストス・エンペイリコスについて
彼が生きた時代も定かではない。様々な資料から推察するに、おそらくは3世紀に生きたピュロン主義者であったとされている。また、彼は同時に経験主義的な医者でもあったことを示す資料も見つかっている。
④本著について
本著は、セクストス・エンペイリコスというピュロン主義者自身によって書かれた数少ないピュロン主義の概要を示す書物であり、それだけでも大変貴重な資料である。
また本著が他の哲学諸派を論駁するという構成を持つことから、当時の他の哲学諸派の概要まで知ることができるという点もあり、二重の意味で貴重な文献となっている。
その後本著は16世紀にヨーロッパでラテン語に翻訳・出版され、当時としては異例のベストセラーになったとのこと(言うまでもなく、活版印刷はルネサンスの三大発明の1つである)。
本著が認識論を軸とする17世紀以降の近代哲学に大きく影響したことは明白である。
⑤ピュロン主義の内容について
哲学的な意味での懐疑主義(=ピュロン主義)とは、論議の対象となるような事象について、断定を避ける立場と要約できよう。
例えば、「善とは何か」という定義を巡るテーマについて、ピュロン主義者はある内容を持った言説で断言することはできないと、判断を保留するのである。
(因みに、この「判断保留」のことを「エポケー」と言うが、哲学では幾つもの意味を持つ言葉であり、例えばフッサール現象学では自然命題を「カッコに入れる」ことを意味することになる)
懐疑主義の立場にとっては、あるテーマにおいて探求していたものを発見したと主張する立場も、それは発見できないと主張する立場も、共にドクマティスト(独断主義者)ということになる。
ピュロン主義者はこの場合、発見できるとも発見できないとも判断することはできない、と主張するのである。
ここで2つの疑問がピュロン主義者に提示されることになろう。
1.「判断できない」という主張はドグマ的な断言ではないのか
この点、セクストス・エンペイリコスは巧妙に指摘を避けてみせる。
一般に「判断できない」という言明はそれ自身にも降りかかる。即ち「判断できないという判断もできない」、「判断できないという判断もできないという判断もできない・・」といった具合だ。
これにより「判断できない」という言明は断言ではないと主張するのだ。
2. ピュロン主義は何でもかんでも疑うのか
前述のように、ピュロン主義が判断を保留するのは、論議の対象となるような事象についてのみである。当然のこととして感じ取られる事象に対しては判断保留は持ち出さない。
但しこの点についても、対象の表象がそのように観取されると言うに留まるというのが重要な点であり、対象そのものが自然本来的にそうしたものであるとは決して言わないのだ。
この点が、のちの近代哲学、殊にドイツ観念論哲学に影響を与えていることは言うまでもないだろう。
⑥ピュロン主義の目的について
ピュロン主義者の主張によれば、判断保留の目的は「アタラクシア」だと言う。「アタラクシア」とは心の平静といったような意味であるが、この点、ピュロンと同時期に活躍した禁欲を旨としたゼノンのストア派や快楽を旨としたエピクロス派と目的を同じくしている。非常に興味深い一致だ。
⑦私の感想
本著で展開される論理は、厳密な意味(即ち数学的な意味で)で論理的かというと必ずしもそうではないだろう。
その原因は、1つには諸々の学派を論駁することを目的として書かれた点による影響がかんがえられる。体系化には必要でも他学派論駁においては必ずしも触れる必要がない論旨には触れられていない可能性があるからだ。
しかしそれ以上に重要なのは、数学を筆頭とする論理学とは異なり、いわゆる「公理」そのものを対象とするが故ではないかと考えられる。
これはつまり、本来的に何かしらの約束事や取り決めなど、前提となる、二重の意味でシイ的な(思惟的かつ恣意的)な決定事項そのものをピュロン主義が対象とするということだ。
公理を打ち立てその公理に依拠して哲学する諸派とはそもそもスタンスが異なるのである。
「こんな哲学に意味はあるのか。ただの知的遊戯で何の役にも立たないのではないか」
こんな疑問が聞こえてきそうだ。
私に言わせれば、そもそも哲学することを「役に立つ立たない」、「有益無益」で評価する姿勢自体がちゃんちゃらおかしい。そういう人は、例えば哲学の美的側面を見落とす、否、美的側面を感じ取る能力すら持ち合わせていないのだろうと一蹴してしまいたくなる。
これはピュロン主義のみならず、学問一般に言えること。学問を「益」のみで判断する人は学問を知らない人であると私は思う。
まあそうした私の感情論はひとまず置いておくとして、仮にもしピュロン主義的な思考法に何かしらの有益性を求めるとするならば、上記の「アタラクシア」を求めるというピュロン主義者の主張とは別に、私は2点あると考えている。
1つには、人間による物事の判断には必ず何かしらの「公理」が存在するものであるということを自覚せしめるという点である。
「公理」を、その人固有の前提とか、(おそらくは感情に規定されるであろうところの)基にある意見・主義主張と言っても良いかもしれない。
自分の「公理」の存在およびその内容に自覚的であるかどうかは、その人の寛容性に大きく影響します。
これは即ち人格である。
人をして人格者たらしめるには、ピュロン主義者になれとは言わないまでも、ピュロン主義的な「公理」の相対性という問題意識を常に持ち続けることは有益なことだと思われる。
2つ目は、結局1つ目と同じこととなるかもしれないが、「公理」への飽くなき探求が多様なる視座をその人のうちに喚起せしめるという点だ。
ピュロン主義は判断保留という用語を使用するため思考停止を旨とするかのような印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。懐疑主義という別名が示すように、あくまで「疑い続ける」、即ち「探求し続ける」立場なのである。
この「探求し続ける」というスタンスは、対象とする事柄についての諸々の主張を吟味することを促し、結果その人に「視座の広さ」をもたらし得るというのが私の考えだ。
私は、人格者たるには「視野の広さ」と同時に「視座の広さ」という能力が不可欠であると常々思っている(これ自体私の個人的な意見であるが)。
ピュロン主義は、人をして「視座の広さ」をもたらしめる方法論的基礎を提供するものであると私には思えるのだ。
以上のように、有益性も十分に備えた哲学であると私は思う。
読了難易度:★★★☆☆
一瞬詭弁感満腹度:★★★★☆
よく考えたら正直者度:★★★★☆
トータルオススメ度:★★★☆☆
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