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「食パンが買えないあの人」小説
「食パンください。厚めのやつ」
「悪いけど、もう売り切れちゃったよ。薄めのやつもね」
その女性はひどく落ち込んだ顔をした。罪悪感でこちらが3日は引きずってしまいそうなほどに。
「ロールパンならまだ残ってるけど。うちの1番人気だよ、一応」
求められていないことはわかっていながら僕は提案した。彼女は大きく首を横に振り、軽蔑ともとれる視線を僕に向けた。僕は心からの謝罪の気持ちを顔に映し出し、それをやり過ごすしかなかった。
この一連のやり取りがかれこれ1ヶ月は続いている。彼女ほどうちの食パンを求めている人間を僕は知らないが、彼女ほどうちの食パンを手に入れられない人間もちょっと記憶にない。
食パンがロールパンの売り上げを凌ぐようになったのは彼女が来るようになってからだった。そして食パンは必ず彼女が来るまでに売り切れた。
「明日、食パンを取り置きしておくよ」
「いえ。そういうのはあまり好きじゃないの」
「好きじゃない?」
「わかるでしょ?それは私が求めてることとは違うの」
僕の頭は残念ながら限界に近づいていた。僕がそれを理解するより店を畳んでしまう方が先だろう。それほどまでに彼女の存在は僕の平穏をひどくかき乱していた。
「たまたま早く起きちゃった日にでも、開店時間に来てくれたら」
彼女は目だけを使ってそれを否定した。それによってその発言がどれほど愚かなものであったかを僕に理解させた。
「じゃあお客さんの好きな時間に食パンを焼き上げるよ」
「あなたは本当に何もわかっていないのね」
彼女は心底幻滅した顔で言った。
「私は何も与えられたくないし、何も与えたくないの」
「また来るわ」
彼女は真剣な表情で店を出て行った。それが冗談であることを願う僕を絶望させるには十分な振る舞いだった。
それから2ヶ月、彼女は店に現れなかった。季節は隣の定食屋が冷やし中華を始める時期になっていた。外の日差しは日に日に増して攻撃的になっており、人々に外出を躊躇わせていた。
その日は久々にロールパンが真っ先に売り切れ、例の厚めの食パンがひとつ売れ残っていた。すでに開店から2時間が経過していた。
改めて自分が早朝から焼き上げたその食パンを眺めてみる。育ちのいいきつねの毛並みのように美しく、その食パンは焼き上がっていた。生地をこねる回数、発酵させる時間、焼き時間のすべてが不気味なほどに完璧でなければ起こり得ない完成度だった。
その食パンが、纏う空気やともに並ぶいくつかのパンすらも洗練されたもののように見せ、この空間を非常に上品なものに仕立て上げていた。食パンの、控えめながらもどっしりとした存在感がその空間作りに寄与していた。そして全体を俯瞰してみると、店内のすべてが無理なくごく自然にそこに位置しているような気がした。
その空間に引きずり込まれたかのように、彼女は店に姿を見せた。額と首筋にはじっとりとした汗が滲んでいたが、それとは裏腹に表情は妙に涼しげだった。それは暗闇に一筋の光をみつけた時に人が見せる類いのものだった。彼女は極めて丁寧に、ゆっくりと店内に視線を巡らせた。そして深呼吸を始めた。大袈裟なほど深い呼吸だった。自分の体内の空気とこの店内の空気を完全に入れ換え、それに身体が馴染むのをそっと待っているようだった。すでに完成されていたかのように見えていたその空間は、違和感なくそっと包み込むように彼女を取り込んだ。
やがて彼女の視線はこの店内の統治を担うものを捉えた。彼女はゆっくりとそれに近づき、他人の赤子を抱き上げるように極めて慎重に持ち上げた。
「この食パンをください」
僕はその言葉を丁寧に咀嚼し味わった。そして砂に水が染み込んでいくようにゆっくりと、その意味を理解した。
速さの違う二筋の涙が彼女の笑顔をこの世のものとは思えないほど美しく輝かせていた。
「この食パンを作ってくれて本当にありがとう」
その瞬間、この店が完成した。ひとつの狂いもなく、不足もなく、完全なものにこの店はなったのだ。
彼女の胸に抱かれた食パンは、より一層輝きを強めたように見えた。
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