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彷徨う行進

メンタルに強弱はあるのか

今回は、気になった記事についてノートに残したいと思います。
まずはこちらをどうぞ。



「強メンタルを手に入れるにはどうすればいいのか? 打たれ強く生きるためのノウハウを学ぶ。」(本文内)
 日刊SPA さんより、過酷な社員研修を取り上げた記事になります。時代錯誤という投げかけから始まり、メンタルを鍛えるための研修について取り上げています。続けて、今なお大手企業でも採用されている管理者養成学校についてその内実が紹介されています。
※大手企業とはいえ、ほんの一部のお話なので必要であるとはいえません。中立的な立場から問を立てていきます。
早速ですが、次の問いを立てます。
はたしてメンタルはノウハウという方法論により鍛え、強くなるものなのか。

写真1:記事内

何が時代錯誤なのか


 先述の問いについて考える前に、記事でも導入として使われている時代錯誤についてみていきたい。
 本記事での「時代錯誤」とは、ストレスがかかる場面に遭遇した時のために耐えうる精神を手に入れる目的で行われるハードな研修(訓練的)を行うこと、またはその方法であると示しておく。研修では、インターネット禁止、スマホ没収など俗世からの断絶ともいうべき社会生活から切り離される。厳正な規律訓練と管理のもと生活する。掃除や挨拶、食事などは常に合否判定が伴い、都度やり直しもありうる。このような非科学的ともいえる方法が時代錯誤であるといえるのか。しかし、目的がストレスに対して耐える精神力の育成であり、理不尽な心労、苦痛を与える方法がいかんなく採用されている点では整合性が取れているかもしれない。つまり、方法が時代錯誤であるならば、目的も時代錯誤であるといえるのではないか。
 

モノ的なメンタル


 研修の目的とは、ストレスとの向き合い方であるが、このことについて少し考える。
 生きていくうえでストレッサーがあり、それに対する反応であるストレスが生じる。ストレスに耐えるとは、「ストレスがある」という前提に従順であり、一方的に受け入れることだといえる。メンタルを器に表現することもあるのは、耐えるものであるという捉え方からきているのかもしれない。メンタルを器として捉えている表現は、メンタルを鍛えるという言葉からも考えられる。鍛えるとは、高温に熱した金属を打って、強くする。鍛錬する。という意味がある。まさに器としてのメンタルは、ストレッサーに穿たれないように鍛錬することにより壊れないようにするのである。しかし、どんなに鍛錬しようが、モノはいずれ壊れるのが性である。勤続疲労や予期せぬ圧力など。さらには、器には許容量があり、溢れる恐れもある。モノ的にメンタルをとらえていれば、理不尽なストレッサーを与えたところで、崩壊への歩みは止まらないということである。

ストレスとの交友


 ストレスは耐えるものとして位置付けていた本記事であるが、モノ的なメンタルから脱却しないと壊れるときは壊れることが考えられる。ここではじめの問いである、「メンタルはノウハウでどうこうとはどうやらする」は雲行きが怪しい。結局は、ストレスの向き合い方とメンタルの捉え方を考える必要がある。
 
最後にストレスの向き合い方を考える。ストレスを耐えるということは、一方的である。しかし、最近ではストレスマネジメントという考え方があるように、ストレスと付き合っていき、自己管理の範疇に収める。自己にとってのコーピングを見つける。つまり、ストレスとともに共存関係を構築し、いわば自己流の対処をもって生活していくというのが一つ考えられる。

番外編:心身一元


 もう少し、あと少し気になることがあるので、次のノートで取り上げたい。今回の記事にもあるが、なぜメンタルを鍛えるとき、身体的苦痛を与えることが第一にあるのか。例えば、研修にもあるが、班でラジオ体操を行い、揃っていないのであればやり直し。合格出るまで行う。ラジオ体操という本来であるならば筋温を高めることを目的とした運動であるが、なぜか統率を図る手段として行われる。これに加え、揃っているかどうかは主観に左右される恐れがあり、理不尽と思われやすいものである。理不尽…。


 なぜメンタルへ働きかけるとき、身体的苦痛があげられるのか。

この研修は問いが尽きない…。


写真2:記事内

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