『啓蒙の弁証法』が示す近代の隘路


イントロダクション

今回はアドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』についてです。
テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーはともにユダヤ人で、1920年代に開設されたフランクフルト大学において設立された研究所で社会理論に関する研究を行いました。
この研究所のメンバーはフランクフルト学派と呼ばれており、カール・マルクスの著作の柔軟な解釈とフロイト精神分析の応用が特徴です。
1930年代、ナチス政権によってユダヤ人への圧力が強まったので二人はアメリカに亡命し、カリフォルニアにて書き上げられたのが『啓蒙の弁証法』です。

彼らの課題は、ナチズムなどの全体主義の引き金となった資本主義を批判することです。重要なのはその批判を西欧そのものの根源的批判までに深めることにあります。

『啓蒙の弁証法』の問いは「資本主義文明は、その富と生産力にもかかわらず、なぜ一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくのか」です。
『啓蒙の弁証法』は2つのテーゼから成ります。
1.すでに神話が啓蒙である
2.啓蒙は神話に転落する

テーゼ1.すでに神話が啓蒙である

『啓蒙の弁証法』のキーワードに神話と啓蒙があることが分かります。
『啓蒙の弁証法』において、神話的世界と啓蒙的世界は以下のように整理されます。

神話的世界:人間は外的世界の豊饒な世界に抱かれており、外的自然に服従するという「模倣(ミメーシス)」の原理に従っている
啓蒙的世界:外的自然と戦い、これを支配して、世界を自由に操縦しようとする「理性」の原理に従っている。

つまり、
・神話=ミメーシス=模倣=自然への服従
・啓蒙=理性=自然の支配=世界の操縦
という風に整理することが出来ます。

この整理だけ見ると理性とミメーシスは対立的に見えます。しかし、実態は複雑なようです。

理性のポイントは「快楽に傾きがちな自分の内なる自然(欲望)をコントロールすることを通して、組織や科学などの理性の産物を用いて外的自然を支配する」ということです。理性のこの姿勢は、古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』における「セイレーン」の話に示されています。古代ギリシアの英雄オデュッセイアはセイレーンという魔物の誘惑を克服するため、自らを船のマストに縛り付け手下の小人たちの耳を蠟を詰めることでセイレーンの誘惑を突破します。(この誘惑はいずれ死に至るものなので、何としてでも克服する必要がありました)

理性の内的な自然(欲望)のコントロールによる自然の支配(セイレーンの誘惑の克服)というモチーフが、神話であるオデュッセイアに提示されています。これが第一のテーゼ「すでに神話が啓蒙である」の意味です。

『オデュッセイア』の話から分かるように、理性の目的は自己保存(死の回避)です。ただし、理性の底にはミメーシスがあります。

上記のように、ミメーシスは模倣です。もっと細かく言えば、既知のものへと還元・同一化することなく、未知のものを未知のものとして経験し認識し得る能力です。人間は自然からの脅威に触れた時、その脅威そのものを模倣しようとします。これによって恐怖や畏怖に駆られた叫び声が出ます。
この叫び声が脅威の対象に名前を与えます。名前が与えられると未知の自然は次回からは既知となり、支配可能な対象になります。このように理性が機能するためにはミメーシスが必要です。

ミメーシスは未知の対象への模倣によって理性を起動させ、自己保存を可能にするのですが、その一方でミメーシスは他者への模倣なので自己保存に反する側面があります。自分ではないものを模倣することは少なからず自分特有の要素を放棄することに繋がるからです。アドルノ&ホルクハイマーは自己をミメーシスを通して融解させることに快楽があることを指摘します。これによって、ミメーシスは自他の境界を破壊するヴァイオレンスにも開かれているのです。

しかし、このヴァイオレンスは誰彼構わず向けられるわけではありません。アドルノ&ホルクハイマーの時代には、とりわけユダヤ人が暴力の対象でした。

テーゼ2.啓蒙は神話に転落する

『啓蒙の弁証法』では、反ユダヤ主義の原因がフロイト精神分析を通して説明されます。
フロイトには「不気味なもの」という論文があり、「投射」という概念について述べられています。「投射」とは、本来自分になじみ深いものが意識奥深くに沈められて忘却された結果、その対象がふとした瞬間目の前に現れると不安に感じ遠ざけようとするという現象です。
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によって明らかになったように、資本主義は基本的に世俗内禁欲が大きなドライブとなっています。

つまりここで忘却されているのはノンビリと過ごすということです。これがユダヤ人の労働せずに金利で生活費を稼ぎ放浪するという「イメージ」が勤勉な労働と定住を強いられる文明人の「抑圧された欲望」を呼び覚まします。その結果、欧州人からユダヤ人への「投射」が起こり、反ユダヤ主義が発生します。

「投射」の概念は文化産業批判にも適用されます。啓蒙が引き起こした西欧文明の究極の姿は現代資本主義だとされています。具体的には広告やメディアなどが発達し、映画やラジオが流行りだした文化産業です。文化産業社会のポイントは、流行にミメーシス出来なければ、排除の対象になるということです。なぜなら、流行の乗らないということは「メディアにコントロールされない」という欲望を体現することになるからです。
メディアが発達した文化産業社会においてメディアに流行にコントロールされないことは困難なので、その欲望は忘却されます。だから、流行に乗らない人は「投射」を引き起こし、排除を招くのです。
これが第二テーゼの「啓蒙は神話に転落する」の意味です。理性(啓蒙)から生まれた資本主義が、ミメーシス(神話の論理)による文化産業と排除に退化します。

参考文献
坂本達哉 社会思想の歴史 2014 名古屋大学出版会
細見和之 フランクフルト学派 2014 中央公論新社
上野成利 暴力(思考のフロンティア) 2006 岩波文庫

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1Takagi Sota


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