漫画 夕凪の街 桜の国 多少ネタバレあり
「この世界の片隅に」よりも私はこちらの話の方が私は好きだ。
実はかなり昔にこの本を購入し読んだのだが、その後「この世界の片隅に」が大ヒット。
とても有名になった。
だが私は一作目のこちらの方が気に入っている。
「夕凪の街、桜の国」は確かテレビで見た記憶では、作者の一大決心の末の原爆体験の作品化だったと記憶している。
計り知れない決意の堅さ重さが、この作品に現れているのかな、とは、私は初めにこの作品を読んで抱いた感想だった。
体験していないものが軽率に触れてはならない禁忌。私はそこにあえて触れにゆく作者の不退転の覚悟を見た気がした。
作品中、一度読んだら忘れない強烈なセリフがある。
そのセリフに作者の持てる力全てが込められてるんじゃないかと思うほど、そのセリフは生々しく突き刺さった。
私はこのセリフを思う時、いつもスタンリーキューブリックのフルメタルジャケットという映画を思い出す。それは伝説の生首サッカーのシーンだ。
非道な仕打ちだが手向のようにも映るこのシーン。それが長い間、疑問だった。
先ほど不退転の覚悟と言ったが、この二つの作品からはこの覚悟が時折見え隠れする。
戦争とは互いが互いに徹底的に相手を潰しあう壮絶な負の連鎖だ。
殺し合いに詰めてゆく姿勢には不退転の覚悟が宿る。だが、それが次第に変化をしてゆく。この悲劇の戦いを終わらせるための殺しへと移行してゆくのだ。そのための不退転の覚悟に転じてゆく。
平和を取り戻すために光を求め、人は非情なまでに闇を求め敵を殺め殺戮を繰り返すようになる。だが、皮肉にもだからこそ戦争は終わらない。
そして、より暗い闇や混沌を求め彷徨う。
これは優しい軍人をここまで凄惨な、人足らずに至らしめてしまう悲惨さを物語っている。
それは世の中で最も自分が嫌いな人間になることを物語っている。
皮肉にもそれが諸悪の根源である。
禍根の根源であると言う。
想像するに難くないはずだ。
これが惨禍にまつわるお話だ。
これだけは言える。
だから永遠に交わることはない。
だが戦争という一点で繋がっている。
極めて困難だが、ならば平和という一点でも繋がれる筈だ。
だからこそ決してあってはならなかったのだ。
知らないはずはない。
地獄と天国が隣り合わせの地獄の世界があることを。
私が抱いたのはこの二つの作品の根底に流れる非情なまでの悲しみだ。やり場のない怒りだ。途方もない疲れだ。
生首サッカーの、もうとうに終わっている(死んでしまっている)だが戦いは未だ続いていると錯覚する軍人の死者への度重なる冒涜は、理性を失った人の、平和への執着とも取れる象徴だ。何度となく殺し続けてしまう敵兵少女への恐れ。
「夕凪の街 桜の国」の主人公は、今際の際にこんな言葉を絞り出す、
ちゃんと思ってくれてる?
また一人死んだ、やったーと喜でるのかと。
だったら良いのだ、と言わんばかりに。
だが酷いなあと。
同志となり得なかった同志への懇願。
人によっては喜べないことがわかっていながら、これを徹底して喜ぶのだと命令し懇願する鞭を振るう。その無念さや途方もない怒り。
NOと言っている。
私の人生を返せと。
また、心から喜べる者なのか。
彼らは問われている。
剣を突きつけられている。
そこに答えはない。
平和への祈りでもある。
敵兵への懺悔の要求でもある。
この二つが折り重なって一つの混沌を成している。
世代を超えた襷のようにも感じるこの琴線は確かに人の心を揺さぶる。
揺さぶって奈落の底に突き落とす。
それは理屈を超えてくる。空虚に手を伸ばすその手は、敵も味方もないはずだ。
だから戦争は悲惨だと。
最後に残るのはそんな戦争への憎悪の思いの丈だ。
被曝体験を作品化するにあたって「これで良いのか」と逡巡し続けたであろう末の作者の答え、敵味方を超えた平和への祈りと見た。