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映画『(ハル)』

(2023年8月27日晴れた日曜日の午後に鑑賞して鈴虫の鳴る夜に感想文を記す)

Haru (1996) - YouTube

DVD特典映像である
森田芳光監督に対するインタビューも
よかったです。

字幕の多い映画なので
その辺りを批判する方もいるのかもしれません。
しかし
「そもそも外国語の映画を観るときに字幕なしで感動することができるのだろうか」という問題提起を
この映画はしています。

メールを通した他人との会話も同様です。
文字がなかったら成立しなかった関係性というものがあります。

わたし自身も
思い出に残り続ける大事な人との出会いの多くが
SNS上のDMがきっかけです。

もちろん
SNS上やメールのやりとりにだって嘘はあります。
たとえば女が男を演じているなどです。

「その程度の嘘」と言っていいものなのかどうかは
人それぞれの受け止め方にもよりますが
実際に人が人を好きになるときは
プロフィールが本質ではないということがよくあります。

そもそも
何度も会っている相手ですら
そのプロフィールのすべてが真実であるとは限らないのです。

「相手を知る」ということの本質は
相手の情報を知るということではないのかもしれません。

たとえば
相手のプロフィールを好きになってしまった場合
「年収1000万円」に惹かれたのであれば
それが嘘だと分かった瞬間に
その恋が終わってしまう可能性もあります。

そうやって人間は
虚と実で成立しているのだから
「SNS上の出会いなんて不純だ」とこだわったり
うしろめたく想ったところで
どのような出会いも
それほど大きな差はなさそうな気もします。

それよりも
実を追いかけて
虚に辿り着くことのほうが
避けられない問題としてあるような気がします。

それから
この映画の中盤あたりで
「誰かと付き合うということはもうひとりの自分を選ぶことと同じなのかもしれない」という言葉があります。

自分自身の理想の姿を相手に求める恋もあれば
ナルシストのように
自分自身のいまの姿とよく似た人を求める恋もあるということのようです。

つまり
「どんなきっかけであるか」よりも
「誰を」のほうが重要であるということなのかもしれません。

そのうえで
この作品における「別れた理由」を考えてみると
「その人を自分自身にしたくなかった」という言葉が理解できます。
(ちなみにここはとくに大きなネタバレではありませんからね!)

つまり
「もうひとりの自分」になる相手が
「その人」ではなかったということなのでしょう。

たとえば
「夫婦は似るもの」というけれど
相手のことを「もうひとりの自分になるもの」と捉えると
怖ろしくもあり
納得もさせられる言葉であると
わたしは感じました。

他にも
「好きな人の好きな人を見たほうが納得できて諦められる」という言葉が
印象的でした。

たしかに
「好きな人の好きな人」が
自分とかけ離れた存在であると確認できれば
「少なくともいまのわたしにチャンスはなかったのだろう」と
納得できそうな気がします。

たとえば
推しの結婚相手を見たときの
納得感に近いのかもしれないと
わたしは感じました。

失恋においては
感覚的に醒める人もいれば
「納得するまでは諦められない」と
頭で理解することを優先したい人が
いるのも事実です。

森田芳光監督は
この作品のDVDの特典映像で
ストーカーについても語っています。

「テレビで観るスターではなくてすぐ隣にいそうな人に夢中になったり追いかける」
そんな時代がやってくることを
予見していたかのような言葉があって
とても印象的でした。

それでもこの作品は
もはや古い映画と呼ばれてしまうような時代のものなのかもしれません。
しかし作品のテーマは
いまも続く「人間の感情のもつれ」を
よく表しています。

わたしがこの作品を観て
一番心に残ったのは
「あなたに会いたい」ではなくて
「あえてあなたを見てみたい」という気持ちを
表現している場面でした。

このような
一見すると素直ではない気持ちの表現でも
それを行動に移すとなると
なんとも健気な姿に見えてしまうのが不思議です。

これは
主人公が真面目なふたりだからこそ
「会いたい」ではなくて
「見たい」になってしまうのであって
このふたりの欲求としては
むしろ自然で
素敵で
切ない展開でした。

ここで
わたしの好きな「エッチなビデオ」の話をしたいと思います。

いきなりですが
わたしの好みは
「引きの画(え)」を多用した作品になります。

わたしは遠くから観た性行為が好きです。
モザイクをかけている意味がないほど
遠く引いた位置から撮られているような映像に興奮します。

自分が性交渉をしているときには
絶対に観ることのできない視点なのですが
なぜか自慰行為がはかどる映像なのであります。

性交渉は五感すべてを使うのですが
自慰行為は
視覚と想像力の点と点を結ぶようなアプローチになるので
疑似主観よりも客観からのゴールシュートを狙う姿勢のほうが
ゲームを観戦するという意味においても
興奮できてしまうのではないかと
わたしは考えてしまいます。

そしてこの映画の中でも
引きの画は多用されているので
個人的にかなり好きな作品になってしまっています。

ただし
この映画の引きの画は
「車窓」というキーワードにつながってゆくものなので
作品としてはもの凄く意味のある撮り方になっています。

たしかセリフの中で
ヒッチコックの映画『裏窓』の話も出てくるのですが
わたしはむしろ
この映画(『(ハル)』)の公開当時に一世を風靡した「ウィンドウズ95」を連想しました。

また
「ファインダー越しにつながるふたり」は
ネットで知り合う恋人たちを象徴している姿にもなっていると
わたしは感じました。

それから
わたし自身の「忘れられない人」が
ちょうど深津絵里さんのファンだったので
過去の恋愛を思い出さずにはいられませんでした。

深津絵里さんは顔のラインが本当に綺麗です。
とくに
サンドバッグを殴っているシーンのお顔が可愛くて素敵です。
深津絵里ファンの彼女からサンドバッグにされていた頃のことを
思い出しました。

さて
そんなわたしがMだったのかどうかはさておき
この映画の
戸田菜穂さんが演じている女性のような
天真爛漫な人がわたしは好きです。

あと
この映画の
主演ふたりの髪型は
当時(1996年)のものでありながら
妙にいま(2023年)の時代を
感じさせるものだったのが印象的でした。
そういった意味でも
「そうか時代は巡ってきたのだな」と
感慨深い気持ちにさせられる作品です。

他にも
村上春樹の小説の単行本が出てくるところが
なんともあの時代らしい感じがして
わたしは好きです。

音楽は
ギター中心のときと
ピアノのみの場面があるのですが
どちらも静かで
引きの画を壊さないように
さりげなく鳴っているところが素晴らしいです。
音も引いている感じがします。

それから
森田芳光監督は
「プライベートでも真面目に生活していそうなふたり」を
配役したそうですが
この狙いはバッチリとハマっていたと
わたしは感じました。

ネット上での出会いの話ではあるけれど
むしろどこまでも純愛で
音楽も画も引いていて
派手な展開もなく
静かなところが
個人的に素晴らしいと感じる点でした。

ちなみに
あの場面でのフロッピーディスクのもち方が
ふたりとも似ているので
とても可愛いです。

この作品のふたりのあいだに
もしも子どもができたら
いま(2023年)は20代前半くらいです。
ちょうど映画の中(1996年)のふたりと
同じくらいの歳になっているはずです。
そう想うとまた素敵だなあと
余韻に浸れるのでした。
(いまの10代から20代前半の人たちの親が若いときに体験した恋愛としても観れるはずです)

そんなこんなで
わたしの大好きな映画です。

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