ぽん太の東海道五十三次歩き旅(36)草津宿→大津宿
こんにちは。ぽん太です。いよいよ目的地の京都三条大橋まであと2日の行程となりました。1日で行けなくもない距離ですが、残す日程を味わいながら進みたいので、今日は瀬田の唐橋を渡って大津まで歩きます。
旅日記
10月12日朝8:30宿を出発。広重の絵にもあった「うばがもちや」に立ち寄り、名物「姥が餅」を購入。
草津宿は中山道と東海道の合流地点でもあり、追分道標がある。「右東海道いせみち(伊勢道)」「左中仙道みのぢ(美濃路)」と刻まれている。
9時開館と同時に草津宿本陣を見物。舞坂や二川のようにここも立派な本陣が残されている。草津宿街道交流館では、浮世絵体験をさせてもらった。ここは結構見どころ多く、充実した施設だ。蒲原宿で買った「東海道五十三次手ぬぐい」も売っている。
ここで、中山道を電車で旅されている方や、3年前に東海道を歩き始めたが途中亀山で事故にあって最近再開された方に出会う。旅の方法も十人十色だなあ。
何やら「道灌」という文字が見えたので、あの太田道灌と関係があるのかと思ったら、酒屋さんであった。どうやら太田道灌の子孫が始めた酒蔵らしい。
10時矢橋(矢倉)道標に到着。ここは琵琶湖の矢橋湊との分岐地点であり、広重の絵にも描かれている。またここは「急がば回れ」の諺の語源にもなったとされる地点だ。当時草津宿-大津宿間は、瀬田の唐橋を経由するルートと琵琶湖の矢橋湊経由で舟渡しの2つのルートがあったが、一見早道の舟渡しは危険を伴うので、瀬田の唐橋経由で回る方が確実であることからこの諺が広まったようだ。
少し行くと、野路一里塚跡がある。久しぶりに一里塚を見た気がする。ここは江戸から120里目地点。京まで後5里(約20km)だ。
近くには民家内に、平清宗像がある。平清宗は、平清盛の孫で、壇之浦の戦いで敗れ捕虜となり、この地で斬首された。遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されているようだ。
11時過ぎ、東海道立場跡に到着。かつては、ここに茶店などが立ち並び、多くの旅人を癒していたのだろう。いまはため池の近くにあるが、水はなくカラカラだ。そういえば、さきほどからこのあたりでため池をよく見かけたな。
そして疲れてきたので、鬼子母神で小休止。今朝買った「うばがもち」を食べる。意外に甘さが控えめで、おいしかった。
12:30、瀬田の唐橋に到着。なつかしの琵琶湖とご対面。瀬田の唐橋は、琵琶湖から瀬田川にかかる橋で古代からの交通の要衝だった。
そして石山の平和堂でランチをとる(12:50-13:30)。平和堂は関東では見かけない滋賀県中心に展開しているスーパーだ。平和堂に来るのも何年ぶりのことだろうか。
このあたりの東海道は結構道が曲がりくねっており、地図をよく読まないと外れてしまう。途中脱線して、琵琶湖を見るためなぎさ公園に行ったり、膳所城跡公園にも立ち寄る。関ヶ原の合戦で大津城が焼けたため、徳川家康は膳所の地に膳所城を築いた。遠くには近江大橋、比良山系もみえる。
中高時代ワンダーフォーゲル部に所属していたので、比良山系にはよく登ったものだ。また中学3年生の夏に友人4名と琵琶湖一周サイクリング(約200km)にも挑戦。今で言うところの「ビワイチ」だが、朝5時に京都を出発して、夜7時に戻ってきた覚えがある。ここまで来れば、もう庭みたいなもんだ。
そういえば、昔このあたりに巨大な廃墟ビルがあったが、さすがに今はもうなくなったみたいだ。
そして、15時過ぎ、義仲寺(ぎちゅうじ)に到着。源義仲がこの地に葬られた後に、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、日々供養したことがその起こりと言われる。あの松尾芭蕉の墓もある。芭蕉はこの地を愛し、遺言でここに葬られたようだ。
滋賀県庁を過ぎ、ついに最後の53番目の宿場町大津宿に入る。大津宿も草津宿のように、昔の宿場町の雰囲気が味わえるところだ。教科書で習った大津事件碑もある。ロシア皇帝ニコライ2世の皇太子の頃、警備中の警官に切りつけられ負傷した事件だ。
そして15:30本日の宿に到着。ついに、残すところ、後1日となってしまった。嬉しい気持ち半分、寂しい気持ち半分という微妙な気持ちだが、明日も怪我のないよう頑張ってゴールインしよう。
記録
総歩数:29,233歩
実際に歩いた距離:17.5km
訪れた宿場:大津宿
宿泊:東急イン京都琵琶湖大橋
本日の行程
広重の絵
大津
(おまけ)瀬田の夕照
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