共感的映画論❄映画『コンドル』

 この映画が製作されてからもうかなりの年月が経過しているが、今でも映し出される映像から、思いがけず新たなニュアンスが息づくような感覚をおぼえることがある。
  映画を観ている者は、自分の日常の現実のイメージの向こうに、映画の構成やストーリーの展開などによって作りだされる”映画の現実”といったもうひとつの現実のイメージを瞬間瞬間に作りあげていく。
 いつのまにか、ある場面の、”そこ”の冷たい空気を深く吸い込んで、気がつけば、主人公の目を通して、”そこ”の薄汚れた裏路地に転がるゴミ箱を見ているような気分になっているのである。先の見えない”現実”を前にした主人公のように。

原 題   Three Days of The Condor   (1975/アメリカ)

出演者   ロ バ ー ト・レ ッ ド フ ォ ー ド (Robert Redford)
      フ ェ イ・ダ ナ ウ ェ イ (Faye Dunaway)
      マ ッ ク ス ・ フ ォ ン・ シ ド ー (Max Von Sydow)
              ク リ フ ・ ロ バ ー ト ソ ン (Cliff Robertson)

脚 本   ロ レ ン ゾ ・ セ ン プ ル ・ ジュ ニ ア  (Lorenzo Semple, Jr)
         デ ヴィ ッ ド ・ レ イ フィ ー ル (David Rayfiel)

音 楽      デイブ・グルーシン  (David Grusin)

監 督   シ ド ニー ・ ポ ラ ッ ク(Sydney Pollack)

『秋と冬の狭間・・・』
 主人公の ジョー ・ ターナー( R・レッドフォード ) は、女(F・ ダナウェイ )の部屋の壁に飾ってあった写真を見てこうつぶやく。

 世界の様々な言語で出版された本の分析を行う機関に勤務する主人公は、ある朝、突然事件に巻き込まれる。そして、その後彼もその理由がわからないまま命を狙われることになる。
 事件はそれまでの彼の日常とはあまりにもかけ離れたものであるにもかかわらず、画面に映し出される彼のまわりの”現実”(ストーリー)は、事件の波紋をかかえながらも、事件が起きる前のそれまでの彼の日常というものを、事件の前と変わらないものとして慎重に形作っていくように静かに展開する。

 公園、高層ビル、アパートの部屋、ビルの裏路地など、この映画では全編を通して、秋の終わりから冬にかけての冷たく透明な空気の向こうに都会の街とその片隅の薄汚れた身近な風景が映し出されていく。そこに身を潜ませるようにさまよい歩く主人公の姿とその息づかいを間近に感じさせながら。
 この映画の登場人物のまわりには、いつもこの冷たく透明な空気が漂っている。それは、その冷たさと透明感が場面に隠された属性であるかのように、映し出される日常の風景の縁から、その場面の質感(人物の像やそこの空気や建物などの)をその色合いと感触をともなって鮮明に浮き立たせる。

 この映画では、作品の<日常性>、たとえば「秋の終わりから冬にかけて街に漂う冷たい空気」といった、それとは意識することはないが、 いつもまわりにあっていつもと変わらないものがその基調を織りなしていく。
 そこには、その基調に織り込まれた<表現>(映画)というものの限界を感受する抑制された感性のようなものの継続した動きが感じ取れる。
 おそらくその限界を形作るこの感性が、この映画の<作品>としての枠組み(限定性)を形作りながら、そこに作り出されていく”架空の現実”といったものをよりリアルなものとして場面に生起させている。
 それは、作品の感性に潜むそれを構成するもの(演技や演出など)の自意識といったものも、その枠組みをはみ出すことなくそのなかへ織り込みながら。
 おそらく、こうした限定性をとおして、映画もまた、この世界の中でいわゆる<作品>(現実)として成立することができるのである。
 映画の基調を構成する設定や演出、演技、脚本などの感性(自意識)が、映画のどこかで、その作品としての枠組みをはみ出すと、おそらくその映画は<作品>として破綻する。観ている方からすると、一瞬にして白けてしまうことになる。

 クリスマスが近づく街の雑踏の方へ歩きはじめた主人公が、不意に後ろを振り返る。その背後で冬の陽光を受けて冷たく輝く透明な大気。突然、にぎやかな街の音が途絶え、画面が静止し白黒に反転する。映し出された主人公の顔に落ち入る深い翳り。
 それを背景に、それも冬の冷たい空気の一部で、いつもそこにあるもののような静かで抑えた響きの音楽とともに、エンドロールが流れはじめる。

 この最後の場面は、冬の街の空気の冷たさと透明感を際立たせる。そこに射し込む陽光によって、いつのまにか日常の風景となっていた主人公が巻き込まれた事件とその波紋の非日常性は、身を潜ませていた街の物影から歩きだした主人公の姿に深まるように色濃く映し出される。非日常性の日常的な輪郭を。
 そしてそれは、その後もつづくであろう主人公の日常の時間を予感させる。床から立つかすかな埃のように、彼の日常の足もとを音もなく漂う不安や怯えといったものを予感させる。

 映画が作り出す、”そこの現実”のイメージはさまざまである。それは体感的なイメージとして、余韻のようにその映画を観ている者の身体の中に残される。その者の日常にとっては異質で、いきいきとした得体のしれないものの奥行きとひろがりをもつイメージを。
 その者が居る場所、”ここ”ではない「ある現実」の地面を踏んでいたような、この映画でいえば、たとえば、ビルの裏路地の冷たく乾いた空気を呼吸していたような感覚の。

 この映画では、こうした「ある現実」の新鮮な体感的なイメージが、破綻のない完結したかたちで画面のこちら側まで、観ている者へともたらされてくる。
 観ている者がそうした完結したイメージを受け取ることができるのは、おそらく、この映画の作品としての形作られていく枠組みと、その作品を構成するもの(脚本、演出、演技、撮影、編集、音楽など)に備わった、本質的に限界というものを知らないそれら個々の”表現の感性”といったものの動きとの間の均衡(その重心の位置がストーリーの展開によって、変動するような難しい均衡)が、この映画を全編にわたって<作品>として破綻させることなく保たれているからである。
 それとは意識させることなく、そこからこの映画の<日常性>の輪郭が描かれていくように、自然で先の見えないリアルなものとして。

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