悪役
過去に名作・傑作のお墨付きをもらっている映画だとしても、今となってはコンプライアンスあるいはポリコレ的にどうなのだろう?というものはこれあります。
私がまだ大学生くらいまではまだジョン・フォードの『駅馬車』は10指に入るぐらいの評価を受けていましたが、今や語ることすらはばかられる映画になってしまいました。
『クレイマー・クレイマー』はどうなのだろう?やっぱり当時の男性が作った当時の男性目線の映画なのでしょうね。
父親の立場で観れば、『カモンカモン』でホアキン・フェニックスが演じた人物の持つ、「自分もかつては子どもだった」という自覚がダスティン・ホフマンには見られない。飽くまで「大人目線」で我が子に接している。
そして、夫として。
ラストにメリル・ストリープが「あの子の家はここよ」と言って、ダスティンに我が子を託しますね。
あそこでなんかホッとする、私がいました。以前は。
それまでのメリルにもあんまりいい感情を持てなかった。ダスティンの視点で映画は作られていますからね。
でもメリルの立場からも映画を作るべきで、その映画ではきっとダスティンが「悪役」となるのでしょう。観る人はみんな「メリルが子どもを引き取るべき」と思うはずです。
そんな映画は1979年には作れなかった。当時としては『クレイマークレイマー』は頑張った方なのでしょう。
初めて観た時の感動が、何回も観るうちに自分も年を取り、経験を積むことでもっと深いものに変化することはよくあるし、それはとっても素晴らしいことだと思うんです。
ただ「これどうなんだろう?今の時代にそぐうかな?」という懸念に頭を支配されながら、自分にとっての大切な映画を観返すことは、やっぱり寂しいっちゃあ寂しい。
でも時代の流れだからしょうがありませんね。