『他流試合』
いとうせいこうさんと金子兜太さんの、これは対談集でしょうね。
金子さんの本業である俳句に関して、ラッパーが本業のいとうさんがいろいろと思うところをぶつけていくという、そういった意味での「他流試合」ということらしいです。
小説家いわゆる散文家の面と、ラッパーいわゆる韻文家の両面を併せ持ついとうさんが、その狭間で揺れ動くのを、金子さんがニヤニヤしながら、それでいて父親のように優しく眺めている構図。
私には詩の素養がないので俳句は苦手な分野なのですが、『プレバト!』以来、少なからず興味を抱いており、だからこそこの本も買いました。
しかも昔何かで目にした、金子さんの「元旦や餅で押し出す去年糞」の句に非常に感銘を受け、それから金子さんには大変興味を持っています。
今回、俳句の成り立ちから現在に至るまでを、なんとなくではありますが私なりに解釈することができまして、非常に得心がいったというか、私だって詠んでもいいんだという許しを得たような気が若干しています。
やっぱり、特殊な人がやるみたいな感じがあるじゃないですか?俳句って。
テレビでも、初めて詠んだ人をあんなに罵倒する必要があるのかと思って見てると、自ずとハードルが上がるというか、下手に手出しするのはやめようという気がしていました。
そもそも俳句は誰かに向けて詠むもので、そういった意味では「あいさつ」みたいなものだというのは目から鱗でしたし、ちょっと話は違うかもしれませんが、古畑任三郎がテレビのこっち側に語り掛けてくる場面を思い出して、「一人芸術のようでいて相手を意識している」という形態に何かとっかかり安いものを感じました。
その他にも切れ字の効能や、助詞の使い方一つで広がり、奥行きを与えられるということを説いています。多少分かりづらい部分もありましたが、その辺はすっ飛ばして読むと、読み進めて行くうちになんとなく分かったような気にはなってきました。
で最後に、散文と韻文の関係にも触れ、世の中が散文化している今だからこそ、すばらしい韻文としての俳句が生まれるのではないかという、一番訳の分からない解説で終わっています。
でもこれ、私は「分かった」でいいかなと思っています。これをきちんと「分かろう」とすると、きっと俳句を詠めなくなるのかなって。
でそれがお二人には最もつまらん結末なのだろうなということは、なんとなく想像はできます。