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うんこ漏らしの憂鬱/わらえるほどかなしく、かなしいほどわらえる
端的に言って私の人生はそんな感じだ。
うんこ漏らしの憂鬱。
それもただのうんこ漏らしではなく、人間社会の中におけるうんこ漏らしという点がミソだ。自然界の中でなら、漏らすどころか好きなだけ垂れ流してやれという気にもなるが、人間社会ではそうはいかない。さらに、何の因果か私は人生の大半を都市部で過ごしてきた。
つまり、もっともうんこを漏らせない状況で生きてきたわけで、だから私には常にうんこ漏らしの憂鬱がつきまとってきた。
ボードレールの【パリの憂鬱】だのなんだのという生ぬるいものとは違って、うんこ漏らしの憂鬱には圧倒的なリアリティが伴う。物心がついて以来、枚挙にいとまがないものの、たとえば学校、大阪、東京、ダナン、サイゴン(=ホーチミン)、深圳、香港…春夏秋冬そこがどこだろうと私は頭よりも腹を抱え、脂汗を流してトイレや野グソができる場所を探してきた(ちなみに野グソができる場所はめったになかった)。
とまあ、実際にもうんこ漏らしの危機と隣り合わせに生きてきたわけだが、そういう生理的・物理的な苦悩は精神にも影響し、いつからか私は「漏らす漏らさずを問わず、自分の人生それ自体がうんこ漏らしの憂鬱だ」と自覚するようになった。
萩原朔太郎は詩集『月に吠える』の序で「狂水病者」を例に絶対的な孤独について書いており、その文章の美しさと説得力は私が読んできた中で至上と断言できる。それを初めて読んだ当時の私は、「これは自分のことだ!」と大いに思ったものだ。
が、しかし、時を経て、残念なことに自分のそれは詩的な響きのある【狂水病者の孤独】ではなく、病める感もクソもないというかクソそのものの【うんこ漏らしの憂鬱】だと思い至ったのだった。
うんこ漏らしの憂鬱。
その憂鬱は、本人にとっては他のなによりも生々しく、苦しく、悲痛でさえあり、またこの上なく絶対的な真実である。そして、本人や同類以外には、他のなによりもバカバカしく滑稽である。
ときに私は、この「うんこ漏らしの憂鬱」をもう少しマシに言い表すことがある。
わらえるほどかなしく、かなしいほどわらえる。
そうして今日も捕らぬ狸の皮算用くりかえすGhostGold。気が付けばいつもリアルもクソも無修正の路上。ときに緑色のゲロを吐いて死にかけるクソバカ。なお写真は堀口大學。