ソクラテスはなんで有名なの?

哲学に興味のない人でも、ソクラテスの名前を知っている人は多い。でもなんでソクラテスが有名なのか、わからない人が多いかもしれない。私もその1人だった。「哲学者だったというから、なんか難しいこと考えたんだろうけど、ナポレオンやアレクサンダー大王の方がよっぽど偉いんじゃ?」と。

少し哲学をかじった人なら、ソクラテスといえば「無知の知」とか「弁証法」で有名なことを知っているかもしれない。しかし私には、それらも大したことがない気がする(というと、哲学やってる人に怒られるかもしれないけど)。

無知の知は「自分の無知なことを私は自覚してる」という程度のもの。謙虚だな、とは思うけど、そんな大したことはない気がする。
弁証法は、いろんな思想家がソクラテスを称賛する時に挙げる特徴なんだけど、私はこれも微妙だと思う。賢いと言われる人をやり込める、いけ好かないものだからだ。

弟子のプラトンが、「プロタゴラス」や「ゴルギアス」で、それら哲人たちをソクラテスがやり込める様子を描いている。このやり込め方が弁証法と呼ばれ、ソクラテスを称賛する理由にされてきたのだけど、こんないけ好かない手法を称賛してよいのかね?というのが、長らく私の疑問だった。

ソクラテスが世界史に激震を与えたその正体は、「産婆術」にあるように思う。ソクラテスは若者に非常人気がある爺さんだった。説教されるのが大好きなマゾな若者が集まったのか、というと、さにあらず。ソクラテスは自分が話すより、若者から話を「訊(き)く」のが大好きな人物であったらしい。

「聞く」とせずに「訊く」としたのは理由がある。ただ若者の話を聞いてるだけではなく、「ほう、それはどういうことだね?」と訊ねることが常だったから。ソクラテスにそう訊ねられると、若者はさらに突っ込んで考えねばならなくなる。「こういうことでしょうか?」と。それに対しソクラテスは。

「ほう、それを聞いてこんなことを思い出したのだが、これと組み合わせて考えてみるとどうなるだろう?」と、さらに畳み掛けて訊ねる。若者はさらにウンウン考えて答えざるを得なくなる。これを繰り返すと、若者はそれまで考えたこともない深みにまで考え、思いもよらないアイディアが口から出てくる。

ソクラテスと問答してると、自分が智者になったかのように、知恵が泉のように湧いてくる。その快感が忘れられなくて、若者はソクラテスのそばを離れたがらなかったらしい。
ソクラテスがいかに若者から人気だったかは、弟子のプラトンの作品「饗宴」にも描かれている。

ソクラテスやプラトンが暮らしていたアテネ(アテーナイ)には、今のアイドルに負けない超人気者がいた。その名はアルキビアデス。美少年で知られたアルキビアデスはアテネだけでなく、ライバル都市のスパルタや、遠く離れたペルシャでも人気を博すことになる。で、この人物もソクラテスにベッタリ。

やはりアルキビアデスも、ソクラテスとの問答で知的に刺激されるのがたまらなかったらしい。
どんなふうに知的に刺激されたのか。その様子がよく分かる「メノン」(プラトン著)という作品がある。ソクラテスは友人宅の召使相手に、図形を前にしていつものように問答を始めた。

二人とも数学の素養はない。しかしソクラテスが「ここのところ、どうすれば良いと思う?」などと召使に訊ね、召使がウンウン考えて「こうしてみてはどうでしょうか」と答えていくうち、図形の新たな定理を見つけてしまう、という結果になる。これこそ、ソクラテスが得意とした「産婆術」だ。

ソクラテスは自分の得意技を「産婆術」だとしていた。いろいろ質問することで相手の思考を刺激し、言葉にしてもらうことで、自分も相手も知らなかった、気づいていなかった知恵が誕生する。新たな知の誕生を助ける技術、「産婆術」をソクラテスは得意としていた。

この産婆術は革命的な手法だった。それまで知識というのは、ピタゴラスやヒポクラテスのような突然変異的な天才が偶然現れて、その人たちが創造するしか方法がないもののように思われていた。凡人は天才たちの生んだ知識をコピペするのが関の山だと思われていた。ところがソクラテスの産婆術は。

知識のない凡人同士が問答を重ねているうち、二人ともが思考を深め、新たな知を発見することが可能。天才の独占物だった知が、凡人でも生み出せるものに変わった。ソクラテスは、「知の創造」を凡人のものにするという革命的なことを成し遂げた人物。これが世界史に名を刻む理由だと思う。

事実、ソクラテスの弟子たちは実にたくさん活躍している。プラトンやアリストテレスなど、ソクラテスとは別の形で世界史に絶大な影響を与えた弟子を生み出すことになった。
他方、当時、ギリシャ一の天才と言われたプロタゴラスなどは、大して弟子が育っていない。天才1人で終わっている。

ソクラテスの産婆術は、知を民主化したと言えるだろう。現代では研究者というのは、少し大きな企業だと抱えている存在。研究は、少し訓練を受ければ知の創造をすることが可能。こうした、特別な能力がない人間でも知の創造に参加できるという道筋をつけたのは、ソクラテスが最初だと言えるだろう。

面白いことに、無知な若者相手なら、知を創造する「産婆術」になるのに、プロタゴラスのような天才に向けると、「弁証法」と呼ばれる、相手の無知ぶりをさらけ出してしまう恐ろしい武器に変わってしまうこと。

当代随一の天才と言われたプロタゴラスのところへ、ソクラテスは訪ねに行った。というのも、その少し前、ギリシャ神殿のデルフォイから、友人がとんでもない神託をもらってきたからだ。「ソクラテスより賢い者はいない」。しかしソクラテスは自分の無知を自覚していたので、神託の意味を確かめようと、ギリシャ一の天才と言われたプロタゴラスのもとに行った訳だった。

で、ソクラテスはいつも若者にするように「訊ねる」ことを繰り返した。プロタゴラスはたちまち見事な解答をしてホレボレさせるのだけど、ソクラテスはそこで満足するのではなく、さらに掘り下げようと「訊ねる」を繰り返した。

するとだんだんプロタゴラスの言葉に矛盾が現れてきて、「あれ?さっきはこう仰ってませんでした?」とソクラテスに突っ込まれ、それに言い訳めいた知ったかぶりを言うとさらにソクラテスに突っ込まれ。とうとうプロタゴラスは「実は私はその件については、あまり詳しくないのだ」と白状するしかなかった。

プロタゴラスやゴルギアスなど、当時天才と呼ばれた人たちをソクラテスがやり込めていくものだから、若者たちはその点でも大興奮。で、ソクラテスは「あの天才たちより私が優れてる点があるとすれば、私は自分が無知であることを自覚している点だろうか」と結論するに至る。これが「無知の知」。

まあ、「無知の知」はその程度のことだから、私にはどうでもよいように思われる。ところで、天才たちをやり込めたその論法は「弁証法」と呼ばれるようになった。でもこれ、不思議に思われないだろうか。若者に「訊ねる」と、知が創造される産婆術になるのに、天才に向けると無知を暴く弁証法になる不思議。

そう、産婆術と弁証法は、実は同じもの。しかし受け取り手というか、相手がどんな人物かによって姿を変えてしまう。無知であることを自覚している若者相手だと、凡人でも知を創造できる産婆術になるけど、俺は天才だと慢心している人間に向けると、その無知ぶりを暴露する弁証法に変わってしまう。

その点でも革命的と言えるかもしれない。ソクラテスが登場するまでは、天才こそが知を創造する中心的な役割を担っていた。しかしソクラテスの産婆術(弁証法)が現れてからは、自分のことを頭いいと思ってる人間は、むしろ知の創造を阻害する存在に変わってしまった。

ソクラテスの産婆術を活用するには、自分の無知を自覚し、謙虚に相手の話に耳を傾け、問い、自分が問われたら真剣に考え、「こういうことではないでしょうか?」と謙虚に仮説を述べる。すると産婆術は、凡人の間からでも次々に知を生み出せる。しかし1人、自分の知に自信のある高慢な人がいると。

その人以下の知的レベルに抑えられてしまう。自分以上の知が生まれるのを許せないからだ。自分の知を疑いもなく受け入れることを強要するからだ。ソクラテスが登場したことで、傲慢な天才はむしろ知を停滞させる存在に変わってしまった。これもソクラテスが世界史を変えたと言われるゆえんだろう。

こうしたことは、過去の哲学書とかでも紹介されていることではあるのだけど、何でかソクラテスを称賛するには「弁証法でなくちゃね」みたいな約束事でもあるのか、そっちに説明が引きずられている。そのためにソクラテスが何を成し遂げたのか、かえって分かりにくくなってる気がする。

哲学者や思想家がなぜ世界史に名を刻んだのか。それは、それまで存在していた常識を覆し、新しい常識を創り出した人たちだからだ、と言ってよいだろう。つまり、世界をアップデートした人たちだと言える。世界中の人々の考え方を変えてしまったという点では、英雄豪傑よりも影響力は大きい。

哲学や思想を学ぶ理由。それは、それまでの常識を覆し、新たな常識を生み出す、世界のアップデートの手法を学ぶため、と言ってよいように思う。そうした視点で、できる限り専門用語を使わず、わかりやすい言葉で哲学・思想を紹介する本を書いてみた。来年2月に発刊する予定。

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