数をこなすより一つをしゃぶり尽くすこと
父は子どものあしらいが非常に上手だったのだけれど、言語化していなかった。瞬時に子どもの状態を感知して、時に大胆なアプローチを試みた。それがうまくはまることが多く(もちろん失敗がないわけではない)、私からしたら一体何をどうしたらそんな判断ができるのかさっぱりわからなかった。
私が後で質問すると、「あの子がこんな様子だったろ?あの状況でこの反応ならこういうことで困っている可能性が高い。だとしたらここをつついたらこう反応するんじゃないかと思ってそう声をかけた」と説明してくれるのだけれど、説明すれば長い割に、判断は瞬時。私にはとてもマネができなかった。
で、私はともかく「言語化」をすることにした。ああしてみたらこうなった、こうしてみたらああ反応した、というありとあらゆるケースをメモし、「あの時こう言葉をかけたらこうなったんじゃなかろうか」という仮説もメモした。ともかくメモ、メモ、メモ。メモして言語化する作業を続けた。
すると面白いもので、過去に経験した似たようなケースに出会うと、瞬時に何をすべきかが分かる場面が増えてきた。「これは前に経験したあれに似ているぞ。でもこの点で違いがあるからそこには注意をしておこう」と瞬時に仮説を立て、無意識が提案してくれた言動を試してみる。その繰り返し。
すると、失敗だらけではあるのだけれど、だんだんと精度が上がってきた。失敗した時は原因を考え、「こうしてみた方がよかったのでは」と仮説が思いついたら、それをメモ。それをひたすら繰り返すうち、私の中でデータベースが蓄積したらしい。年を食ってから、瞬時に判断できることが増えた。
父はカンの良い人、私はカンの悪い人間、と思っていたのだが、トシをとって少しずつ自分にも瞬時の状況判断ができるようになったことで、考えが変わってきた。父が素早くカンを働かせることができたのは、「経験の蓄積」がものを言ったのかもしれない。
父は小学5年生の時、6年生のガキ大将に馬乗りになられ、タコ殴りにされた。しかし父は泣きもせず、音もあげなかった。次第に血だらけになり、それでも降参しない父を殴り続けるうち、ガキ大将の方が怖くなり、泣き出した。その目撃者が尾ひれをつけ、父がガキ大将になった。
そしたらどうしたわけか、隣の小学校のガキ大将も兼ねることになり、2つの小学校のガキ大将に。その時に経験した蓄積が大きいのだろう、と父は言っていた。瞬時に子どもの心を見抜いたのは、大勢の子どもたちをおさめる経験の蓄積がものをいったのだろう。
私は父のような向こう気はなく、むしろいじめられていた方だったので父のような蓄積はなかった。ただ、塾を始めて子どもたちを指導するうち、その子たちを観察し、言語化を続けた。指導した子どもだけでなく、周囲に起きたこともどんどん言語化していった。それをメモしまくった。
父が小学校の1年間で学んだことを、私は30年近くかけて学んだということなのだろう。実にスロースターターだし、時間もかかっているけれど、マネできなくはないんだな、という気はする。要は、自分の中にどれだけデータベースを蓄積できるか、ということが大きいように思う。
ただ、数をこなせばよいわけではない。子どもを何千人も指導した、と書いてある本を見たりするけれど、「かえって見えないんじゃないかな」と心配になることも。数をこなさなければならなくなると、一人一人を丁寧に観察できなくなる。すると、集団(マス)で扱う技術は磨かれたとしても。
一人一人の子どもが見えるわけではない。目の前の子の状況を把握するには、一人の子を丁寧に観察し、取っ組み合いで付き合った経験が必要。
人間の学習というのは、「一つを丁寧に観察する」ことによって深く学ぶ、という特徴があるらしい。
赤ちゃんは歯が生えてくるくらいになると、いろんなものをかじる。叩く。投げる。様々なアプローチでその物体を知ろうとする。柔らかいのか固いのか。壊れやすいのか壊れないのか。高い音が出るのか低いのか。重いのか軽いのか。ありとあらゆるテストをして、目の前の物体を知り尽くそうとする。
その体験を手掛かりに、プラスチックと陶器を区別できるようになるらしい。人工知能での学習では、ともかくたくさんのデータを学習させる「ビッグデータ」が重視されるけれど、人間はどうやら、一つの現象を徹底してしゃぶりつくすように試行錯誤することで学び取るらしい。そして。
「これはいくら叩いても割れないし軽いから、僕のお皿と同じ素材(プラスチック)」と分類できる。「これは重めで落としたら割れそうだから、あの時割っちゃったあのカップと同じ素材(陶器)」と、自分の濃厚な体験から物事を分類するようになるらしい。
人間の学習はどうやら、一つの事象を徹底して知り尽くすことで、物事を判断する座標軸を作り、それに近いか似ていないか、という形で世界を分類し、理解していくらしい。だとすると、変に数をこなすより、一つのことにどっぷりと浸った方が深い学びになる。
京都市の地理を覚えるコツは、南北の道、東西の道をとりあえず1本覚えてしまうことだという。私なら、今出川通と東大路通。これをx軸とy軸の座標軸のようにとらえ、「東大路より右、今出川より南」ということをやっているうち、京都市の土地勘ができるようになった。
これと同じで、「カン」を磨こうと思ったら、まずは座標軸になり得るような濃厚な体験を積むことが大切なように思う。五感を動員して感じ取り、ありとあらゆる仮説を立て、ありとあらゆることを試してみた経験。それが1つあると、次からそれが座標軸となる。
座標軸ができると、「このケースはこの点で違う」「今度のケースはここで似ているけれど、あの点で違いあがる」と次々分類できる。そして違いが見つかったケースは、そこでまた濃厚な体験をするために、五感を動員、試行錯誤を繰り返す。そうすると、それがまた座標軸になる。
私が塾で指導したのはわずか100名程度。塾講師の人たちが聞いたら「それで教育を語るとは笑止千万!」と言われて仕方のないほど、少ない数。ただ、私の指導体験は濃厚。学年最下位の子、不登校の子、家庭内暴力の子、いわゆる不良・非行の子、などなど。
残念ながら、私の指導はうまくいったとはいいがたい。「あの時ああしていれば」という悔いがたくさんある。その悔いがあるからこそ、その後も似たようなケースがあったら、「こうしてみたらどうだろう?」と試行錯誤を重ねた。30年間、ずっとその試行錯誤を重ねてきた。
子どもたちと取っ組み合う形で付き合った経験が、私の中で濃厚な体験的知識となり、それを座標軸として様々な体験を整理してきた。その座標軸があったからこそ、言語化ができたことがたくさんある。ある意味、私の指導を受けた子供は、私の肥やしにされた格好。
私が子育てについてつぶやくのは、そうして言語化してきたもの。私は物わかりが悪いから、自分にわかる言葉で紡ぐ。それがもし他の人のお役に立てば幸い。
カンを磨きたければ、数を変にこなそうとするより、一つのケースに取っ組むことの方が学びが大きいように思う。その学びを得たうえで数をある程度こなすと、観察眼が違うから学びのスピードが加速する。けれど、取っ組み合いをせず、座標軸が定まらずに数をこなしても、学びになりにくい。
ある時、石英の透明なのが水晶だと教えてもらった。そして「これが石英」と教えてもらった。しばらく石ころの中から石英を見つけては観察する、ということを繰り返していたら、石ころから石英を見つけるのがものすごく早くなり、石英より硬い石、柔らかい石を見分けられるようになった。
一つを濃厚に学び取ると、逆説的だけれど学びが普遍的になる。人間の学習システムは、どうもそうなっているらしい。もし自分の学びは浅いな、と思われる方は、自分の気になる現象と取っ組み合いでとことん付き合ってみるとよい。すると、今まで見えなかったものが見える。解像度が劇的に上がる。
初めに数をこなそうとしないこと。それよりは自分の興味関心のあることでよいから、それをしゃぶりつくすように、五感を動員して観察すること。すると、今まで見えなかったものが見えてくる。いろんなものの解像度が上がってくる。一度、お試しあれ。
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