自分を主語にせず、部下や子どもを主語にする 二宮金次郎(尊徳)から考える

経営立て直しの手腕を買われた二宮金次郎(尊徳)は、桜町の立て直しを依頼される。ところが農作物があまりできない土地に重税をかけられる理不尽が長く続き、マジメに働くのがばからしく、人々の心は荒廃していた。尊徳の立て直しは困難を極めた。

多少強引なことを行ったこともあり、反発する者続出。尊徳は「桜町の人々のためにやっていることなのに、どうしてわかってくれないのか」と苦悩した。ついに心折れ、ある日突然行方をくらました。

寺のお堂に籠もって「どうして・・・」と考え続けていると、「お前は自分のことばかり考えている」という幻覚を見て、ハッとする。「そうか、自分『が』桜町の人々『を』、と考えていた」。桜町の人々『が』。そう考えることが大切なのに、自分『が』主語になっていた、と気がついた。

その頃、桜町では尊徳が消えたと大騒ぎ。考えてみたら、これまでの代官であれだけ人々のことを考えて動いた人がいたか?もし尊徳がいなくなって別の代官が来たら、またひどいことになる。そう思うと、なんとか尊徳に戻ってもらわねば、と、人々に能動性が生じた。ちょうどその時、尊徳は戻った。

村民「が」、と、主語を人々に置き、人々の話をよく聞くようになった尊徳と、ちょうど能動性が出てきた村民の動きがガチッとはまって、以後、桜町の立て直しは順調に進み、大飢饉の時でも備蓄の余裕をよそに提供できるほどになった。

私の部下育成本、子育て本の特徴は、上司や親を「主語」にしていないこと。主語は部下であり、子ども。部下「が」、子ども「が」能動的に動くにはどんな環境が与えられ、どんな言葉かけがなされるとよいのか。そのための「手段」として、上司、親を位置づけている。

部下育成本や子育て本を読むと、上司「が」、親「が」こう振る舞うべき、こう言葉をかけるべき、と書いてあるのをよく見る。けれど主語を上司や親である自分に置いてしまうと、部下や子どもがいまどんな気持ちでいるのか、どんな環境に置かれているのかを観察するのがおろそかになる。

だから主語を観察対象に置く。すると、部下や子どもがどんな気持ちでいて、どんな行動をとりそうなのか、だんだん察しがつく。仮説が自然に湧いてきて、「こうしてみたらこんな変化が起きるのでは?」と気がつく。それを試す、ということを繰り返すうち、仮説の精度が上がってくる。

主語を自分ではなく、目の前の人に置いてみること。すると、相手は「自分の気持ちや置かれた立場を理解しようとしてくれている」と感じる。ならば、と、好意的な反応が出てきやすくなる。能動的な動きが出てきてくれないかと祈っていたら出てくる。すると自然に驚き、嬉しくなる。

その驚き、喜んでいる様子が、さらなる能動性を引き出す。ますます驚き喜び、能動性が引き出される。主語を部下、子どもに置くことで、全然違う動きが導かれていく。
自分「が」何かをなすのではなく、相手「が」能動的に動くのを祈り、見守り、驚き、喜ぶ。

主語を自分に置かず、部下や子どもに置く。そのコツを、二宮尊徳から学んだ。人々の能動性を引き出すには、主語を人々に置くことがとても大切なことのように思う。

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