子育てにおけるユマニチュード的アプローチの可能性
日本ユマニチュード学会で発表した内容を公開。せっかくなのでプレゼン原稿を読み上げるような気分で。タイトルは「子育てにおけるユマニチュード的アプローチの可能性」。 そもそも、看護や介護には門外漢の農業研究者の私がなぜ発表することにしたのか。
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クローズアップ現代でユマニチュードの特集を見て感激し、本を読んでさらに感動。これは介護や看護に限らず、子育てや部下育成など、人間に関わるあらゆる場面で通じる手法だ!と、ツイッターで書いていたところ、私のつぶやきを見ていたという本田美和子さんから連絡が来たのがきっかけ。
開発者であるイヴ・ジネストさんも紹介してくれるという話に有頂天になり、つい日本ユマニチュード学会にも参加し、あまつさえ発表までしてしまおう、と考えた次第。でも、私は介護の経験はゼロ。そこで、ユマニチュード的なアプローチを子育てに応用してみた事例を紹介することにした。
息子がまだ2歳の頃、海に連れて行った。赤ん坊のころに海に連れて行くと、自ら波に突っ込んでキャッキャ笑っていたような子だったので、きっとこの絵のように海で楽しく遊べるのでは?という期待を持っていたところ。
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立ちすくむ息子。ハイハイしていた赤ちゃんの時と違い、すっくと立てるようになった息子は、茫漠たる海の広さに圧倒され、それが波で大きくうごめく様子にも驚かされ、楽しむよりも強い不安に囚われたらしい。(絵はAIに描かせた)
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その様子をみたおばあちゃん、息子の手を引いて「さあ海に入ろう、楽しいよ」と誘った。しかし強い不安に囚われている息子は、手を引かれるとかえって腰が引け、海辺から逃げてしまった。手を引かれたことで「不安」が「恐怖」に変わったらしい。
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少し落ち着くと、また息子は海を眺めて立っていた。今度はおじいちゃんが「大丈夫だよ、近くに寄ってみようか」と、息子の背中を押した。すると、またしても「不安」が「恐怖」に変わったらしく、息子は慌てて海辺から遠ざかってしまった。
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手を引かれた時の息子の心象風景は、この絵のようなものではないか。不安を感じているときに手を引かれると、不気味な世界に引きずり込まれるような恐怖を味わうことになったのではないだろうか。
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また、背中を押された時の息子の心象風景は、この絵のようなものだったのではないか。不安を感じているときに背中を押されると、断崖絶壁に突き落とされるような恐怖を覚えてしまうものなのかもしれない。
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通常、「手を引く」、「背中を押す」という行為は、優しい行為、応援する行為、賞賛されるべき行為だととらえられがち。でも、不安を感じているときにそれをやられると、イヤなのに強制される「受動的」な感覚になる。すると、不安は恐怖に変ずるのかも。
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そして、不安がまだまだ消えないのに、しつこく手を引かれたり背中を押し続けられたり、あるいは「臆病者め」「情けない」などとなじられたら、「恐怖」は「嫌悪」に変じてしまう。いくら勧められようと、実は興味があることでも、もうイヤになり、嫌いになってしまう。
「良かれと思って」「せっかく応援してあげているのに」と大人が思い、その「優しさ」に応じようとしない子どもに腹を立て、それが態度に出て、罵る言葉になって出てしまうと、子どもは嫌悪感が根付いてしまい、「ダメな奴で結構」と開き直り、自己嫌悪感と劣等感が身についてしまうのでは。
自己嫌悪と劣等感が根を張ってしまえば、意欲は減退し、無気力になってしまう。「学習性無気力」というやつ。もしかしたら、少なからぬ子どもたちが、親たちが先回りし、ああしろ、こうしろとせっつくことで、この過程を踏んでしまうのかもしれない。何を隠そう、これが私の子ども時代。
息子を見て、「ああ、小さなころの自分と一緒だな」と思った私は、自分がやってほしかったことをやってみた。何も言わずに、子どもの真横に並んで海を眺めること。手も引かず、背中も押さずに、ただ真横で、一緒に海を眺める。
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すると、息子がほんの1センチほど、前に進んだ。私もそれに合わせて1センチ前に。するとまた息子は前に進んだ。私はそれに合わせて前に進み、また真横に。それを繰り返すと、ついに波が息子の足を洗った。するとそれにビックリして、息子は海辺から遠ざかった。すると私も下がって、やはり真横に。
すると息子は再び少しずつ前進(漸進)を再開。波が息子の足を洗ったけど、今度は踏みとどまった。しばらくすると、息子はさらに前に。次第に深みへ。どうやら真横に立つ私を、「自分が勇気を振り絞ったメルクマール」にし、それよりも少しでも前に進もう、としているらしい。
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胸の深さにまでたどり着いた時、私は息子の目を見て「やったなあ!」と語りかけ、ハイタッチ。すると息子は誇らしげに、その後は海で楽しく遊び始めた。誰かから言われてではなく、自ら勇気を奮って前に進んだという自信が誇りになったらしい。
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こうしてその後は、絵の通り、家族で楽しく海水浴をすることができた。
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まとめると、次のようになると思う。つい大人が先走り、海に慣れさせようと手を引いたり背中を押したり、「応援してあげている」つもりになると、不安を感じたままでそれをやられた場合、それは強制と感じ、「やられた」という受動感を強めるらしい。そして、不安は恐怖に変じてしまう。
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恐怖を感じているのに、なおも「応援」のつもりの「強制」を続けられると、恐怖はやがて「嫌悪」に変わってしまう。そんなに強制されるものなんか、絶対にやるもんか!と、拒絶してしまう。そしてその様子を臆病者、怠け者などと罵られると、自己を否定し、心が閉じこもってしまう。
ならば、ユマニチュード的なアプローチだとどうか。子どもを大人の思惑へと連れて行こうとする「先回り」ではなく、子どもが自ら能動的に動き出すまで待つ「横並び」をしてみる。すると子どもはそれよりはほんの少しだけ、前に出ようとする。そうすると、過去の自分よりは勇気があることを示せる。
大人は、先回りの逆である「後回り」して、また横並び。すると子どもは再び勇気をふりしぼって前に。また横並び。こうして「後回り」と「横並び」を繰り返すと、子どもは常に自分が先導して、能動的に勇気を奮っている達成感、能動感を味わうことができる。自分を誇らしく思える。
こうして、大人が「後回り」と「横並び」を続け、子どもが自ら前に進む勇気を示したことに驚いていると、子どもは何でも工夫し、挑戦してみようという能動性が習慣化し、意欲溢れる子どもに育っていくのではないか。 以上が私の学会発表の内容。
私以外のすべての発表者が、医療関係者か介護施設の関係者である中、私だけが農業研究者で、しかも子育ての内容という、違和感たっぷりな発表だったのだけれど、座長も含め、みなさん好意的に受けとめてくれた。なんと、学会長である本田美和子さんも聴いてくれ、「よくぞ発表してくれた」と。
でも、他の人はどう思ったのだろう?そこが不安だった。夕方、懇親会があったのだけれど、「発表を聞きました」と、名刺交換に来てくれた人がたくさんいて、ホッとした。子育てという、仕事とは別の身近な話に、けっこう共感してもらえたみたい。
学会に参加しているみなさんも、ユマニチュードは高齢者にだけ有効なのではなく、人間であれば誰にでも、いや、なんならすべての生きものに対して有効な考え方であり、手法だということを感じていたらしい。それを再確認できた、と言ってくれた人もいた。ありがたい。
本田美和子さんは私との約束を忘れずに、ジネストさんを紹介してくれ、ツーショットで写真も撮らせていただいた。憧れの人に出会えて、本当にうれしかった。英語がうまく話せず、握手し、肩を組むことができただけなのが残念。
また機会があったら、子育てネタで日本ユマニチュード学会で発表することにしよう。ユマニチュードは、日本語で呼ぶなら「関係性」とでも訳したくなる思想、あるいは技術で、他者の自発性、能動性を大事にしたうえで、関係性を良好なものにしていこうとするもの。これは介護にとどまらない。
ユマニチュードは、介護や看護だけにとどまらず、子育てや部下育成、先輩上司との向き合い方、恋人や伴侶との寄り添い方など、人間関係すべてに通じる理念のように思う。もっと多くの人が学び、他分野に応用する人が現れることを願う。