愚行を楽しめば同じ過ちをせず、愚行を恐れれば繰り返す

愚行(失敗)を楽しむ人は同じ愚行を繰り返さず、愚行を恐れる人は同じ愚行を繰り返しがち。

私が観察していると、上記のような仮説を裏付けるような事例をたくさん見る。親や上司は、子どもや部下が失敗を恐れるよう、厳しく叱責し、失敗を繰り返させないようにする。しかし現実には。

失敗を恐怖すればするほど、同じ失敗を繰り返す人が本当に多い。私の職場で新人としてくるスタッフの少なからずが、失敗を恐怖している。失敗に終わったことを指摘すると「ああ!どうしましょう!申し訳ございません!」とパニックになり、もう頭真っ白になる。もし私がこのまま放置すれば、

この人は同じ過ちを何度も繰り返す人になるだろう。そしてその都度パニックに陥り、頭を真っ白にしてしまい、自分で考えることをやめてしまって。指示されたら指示したことだけを作業し、次の指示を待つ、という、指示待ちロボットのできあがりとなってしまっただろう。

でも、私は一緒に失敗を楽しむことにしている。「お、失敗していただきましたね。好都合なので、一緒に何が起きたのか、観察して楽しみましょう」と提案する。そして、「ここ、どうなっています?」「その時、何が起きましたかね?」「だとすると、この中はどういうことになるでしょう?」と問い、

その都度、答えてもらう。最初はおずおずと、ビクビクしながら。でも、私が答えの一つ一つに「おお!その通りですね!」と、答えてくれたことに喜び、その観察眼の正しさに驚いて見せると、だんだんと落ち着き、冷静に観察したまま、見たままを答えてくれるようになる。すると、ごく自然な流れで

一緒に何が起きたのか、観察することを楽しめるようになってくる。成功は何が起きたのかわからないが、失敗はなぜ起きたのか、メカニズムがとても分かりやすい。冷静に観察すれば、なぜそれが起きたのかが理解できる。すると、どんな仕組みなのかが理解できるから、次、どうすればよいかの「仮説」が

自然と思い浮かぶ。だから、私は一通り、目の前で起きた失敗と呼ばれる現象を一緒に観察して楽しみ、だいたい見るべきものを見尽くしたと思われた時点で「では、どうしたらよいと思われます?」と問うと、「こうしたら次は上手くいくんじゃないか、という気がします」という仮説を言ってもらえる。

私は「お、いいですねえ。じゃあ、その仮説通りにやってみてください」とゴーサインを出す。実は、それでもうまくいかないことが私にはわかっていたりする場合もある。でも、危険がないならあえてそれも体験してもらう。そして失敗に終わったら、また一緒に観察を楽しむ。これを繰り返すと。

失敗したらパニックに陥り、「どうしましょう!」と頭真っ白になる、というそれまでの「習慣」が徐々に抜けていき、失敗したらともかく何が起きたのか観察すればいいんだ、そして観察し尽くしたら、どうしたらよいか仮説が自然に湧いてくるもんなんだ、ということに気がついてもらえる。

そうして、
失敗→観察→仮説→実験→失敗・・・
というループを繰り返すうち、仮説はますます洗練され、最後には成功にたどり着いてしまう。
「なんだ、失敗を恐怖し、パニックに陥っても何にもならないけど、観察し、仮説を立て、試してみる、ということを繰り返せば必ず解決の道が見えてくるんだ」

それがわかると、もう失敗を恐れなくなる。失敗したら観察を楽しめばいい。観察すれば仮説が思い浮かぶ。そしたらその仮説通りに実験する。また失敗したら、さらにその現象を観察して新たな仮説を紡ぐ。これを繰り返せば、どんな課題もいつか突破口が見えてくる、ということがわかってくる。

だから、私は子育てでも学生やスタッフの育成でも、失敗を楽しむことにしている。失敗したら観察を楽しめばいい。観察を楽しめば仕組みが分かり、仮説が思い浮かぶ。その仮説を試してみればいい。これを繰り返せば、必ずいつか解決策にたどり着く。それを子どもにも学生にもスタッフにも伝えている。

ところが少なからずの旧型の指導者は、「失敗を繰り返させないためには恐怖させればよい、恐怖させるには厳しい叱責や罰を加えればいい」と考え、ものすごく厳しく叱ったり、厳しい罰を与えたりする。そうするとなるほど、失敗を恐怖するようになる。ところが恐怖すればするほど、同じ失敗を繰り返す。

恐怖するから頭が真っ白になる。恐怖するから、失敗という現象を見ようとしない。怖いから見たくない。見ないから、仕組みがわからない。なぜ失敗したのかわからずじまい。ただ恐怖し逃避し心を閉ざすだけ。何が起きたのかわかっていないから、また同じ失敗を繰り返す。

そして何もわかっていない残念な指導者は、再び失敗を恐れさせることで失敗を回避させようと、厳しい叱責、罰を与える。すると、子どもや部下は、その叱責や罰の恐ろしさに意識が奪われるあまり、失敗という現象を見るゆとりを失う。叱声と罰のことで頭が一杯になる。だから同じ失敗を繰り返す。

なぜ少なからずの指導者が、失敗を恐怖させようとするのだろう?罰や厳しい叱責で失敗を恐怖させようとするのだろう?それは恐らく、「失敗」と「危険」を混同しているからではないか、という気がする。

イヌイットの人々は、ストーブの危険を教えるために、わざとストーブに軽く手の甲を押し当てることで、ストーブが危険で痛い目に遭うものだということを教えるという。これにより、赤ちゃんでもストーブに近づこうとしなくなるという。このように、危険は恐怖させることで近づかなくなる。けれど。

失敗を恐怖させるとどうなるかというと、その業務をすること自体を嫌うようになる。100点以外の点数を失敗とみなし、厳しい叱責でその「失敗」を恐怖させたら、学習自体を恐怖し、そこから離れようとする。赤ちゃんがストーブから遠ざかろうとするのと同じように。

私は、大概のささいな失敗は、危険がないと考えている。他人に、そして本人にも大した危険がないのなら、失敗はむしろ歓迎してよい現象だと考えている。そして失敗を観察することを楽しめば、様々な発見がある。それが初めての失敗であればなおさら。「へえ!これはこんな仕組みになっていたのか!」

失敗すればするほど学びが得られる。ビバ失敗!危険がないのなら、失敗はむしろ多大な学びを得る機会だと思って喜べばいいのに、と思う。そして失敗を観察することを楽しみ、仮説を紡ぎ、それを試してみるのを楽しむ。成功はそうした試行錯誤の旅が終わる、寂しくてつまらないもの。そう思う。

失敗している間こそ楽しい。学びがその期間はあるから。成功するとつまらない。それは学びの終了を意味するから。私は、失敗とは、挑戦しているその過程そのものだと思う。なのに失敗を恐れさせるって、意味わからん。失敗は、危険がない限り楽しめばよいものだと私は考えている。

そうして失敗を楽しむ者は、同じ失敗を決して繰り返さない。観察しまくっているから、仕組みを熟知している。つまらないから、同じアプローチは決して繰り返さない。だから同じ失敗は決してしない。
ところが失敗を恐怖する人間は話がガラリと変わる。

失敗を恐怖し過ぎて何も観察していないから、仕組みがわからないまま。どうアプローチしたらよいのかわからないから、あてずっぽう、目をつむってデタラメをやったりする。あるいは、頭真っ白すぎて同じアプローチしか思い浮かばなかったり。で、失敗を繰り返してしまう。

世の指導者に要請したい。もう失敗を恐怖させる指導の仕方はやめなはれ、と。それは失敗を観察することも恐怖させ、かえって同じ失敗を繰り返させるだけに終わるだけやんか、と。厳しい叱責や罰で失敗を恐怖させるアプローチはムダなだけでなく有害。

では、なぜ失敗を厳しく叱責する人がなかなか減らないのだろうか?私は、実は、失敗し続けてほしいと心の奥底で願っているからではないか、と見ている。厳しく叱責すれば同じ失敗を繰り返すことが、実は無意識下で気づいている。なのに叱責するのは、「相手を支配する」快感を味わうためではないか。

相手が失敗を繰り返せば、自分は相手を叱責し、支配する立場でい続けられる。その快感を覚えてしまって、相手をやたら叱責し、罰を与え、失敗を恐怖させることで失敗を繰り返す状態に陥らせ、相手を自分の支配下に置いてしまう。そんな暗い願望に囚われているのではないか、という事例がある気がする。

私は、相手を支配下に置く願望なんかアホらしいし、面倒くさいからいらない。だから失敗を恐怖させ、失敗を繰り返させるという手法に魅力を全く感じない。意味を私は感じることができない。そんなことより、一緒に失敗を観察し、何が起きたのか発見したほうが楽しいやんか。

愚行、失敗を楽しもう。楽しめば自然と観察することになる。観察すれば仮説が湧く。仮説が湧けば解決の道が見えてくる。成功して「試行錯誤の旅」が終焉してしまったら、次の挑戦を始める。また失敗の観察を楽しみ、試行錯誤の旅を繰り返す。そのほうが楽しいように思う。

「失敗を楽しむ者は同じ失敗を繰り返さず、失敗を恐怖する者は同じ失敗を繰り返す」という不思議な現象は、上記のようなメカニズムで起きるらしい。危険と失敗を混同し、失敗を恐怖させる愚かなやり方から、そろそろ脱却したらいいのではないか、と私なんかは思う。

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