現代日本は「赤ちゃんとのふれあい欠乏症」

私の祖母が入所してるところを見舞いにいくと、当時赤ちゃんだった息子を見て、施設の皆さんが目を細め、ものすごく嬉しそうな笑顔になった。
今生きてらしたら百歳前後になろうという世代の人たちは、自ら子育てしてたり、そうでなくても親戚の子と遊んだりと、子どもとの関わりが深い。

だからこそ、赤ちゃんを見て、思わず笑顔になったのだろう。コワモテの男性まで、赤ちゃん見たとたんに好々爺の顔になったのだから、なんと赤ちゃんという存在の力はすごいものよ、と心底驚いた。高齢者施設は、乳幼児施設と隣接させた方がいいよなあ、と思ったのは、ソレが大きなきっかけ。
他方。

私達の世代がもし同じように高齢者施設に入ったとして、赤ちゃんを見たとき、果たして全員が笑顔になるだろうか、という点に疑問が湧いた。次のような体験があったからだ。
もう10年ほど前になるけど、うちに研究しに来る学生には、みんな赤ちゃんを抱かせることにしていた。すると、

ほぼすべての学生が、赤ちゃんを抱くのは初めてだと答えた。「え?親戚の子とか、近所の赤ちゃん抱かせてもらう機会はなかった?」と聞くと、親戚が遠かったり、近くてもそこまでのつきあいがなかったりなど、赤ちゃんを抱く機会はなかったという。私も少ないとはいえ、3,4回はあったのに。

ある女子学生は、正直に次のように告白してくれた。「実は私、子どもが苦手で。どう付き合ったらよいのかわからなくて、恐くて」。旧帝大を卒業したその学生は、その後、結婚して子育て真っ最中。今も子連れで我が家に遊びに来てくれるけれど、赤ちゃんに接するのは我が家が初めてだったという。

知人がこんな記事を紹介してくれた。

「子どもがいないから少子化になる」
https://blog.tinect.jp/?p=88120&fbclid=IwY2xjawGeshNleHRuA2FlbQIxMAABHUxiBZ8cktYvsCRI7_8K2oie6kZTxy_lzY2IkYvfxgMdlLYImXmqD0LCMw_aem_0ILXEavrHyzbU_oFLOdm4w

子どもと接する機会がなければ、ますます少子化は加速するのではないか、という内容。私も同感。子どもと接することがなくなってきた現代では、子どもは「異物」として認識されやすくなっているのかもしれない。

その記事にもあるように、一時、保育園が新設されるとなったときに「迷惑施設だ」として、地域住民が反対運動を起こした、という報道が何度も紹介されていた時期がある。当時、赤ちゃん子育て真っ最中だった私たちは、「子どもが迷惑…なんと世知辛い、子育てしにくい世の中になったのか」と思った。

なぜ保育園が迷惑施設だととらえられたのか。その運動が起きる前から、保育園からの「騒音」が気になるとして、問題が起きていた。私の知っている名古屋市の保育園でも、保育園の方が先にあったのに、後からできたマンションから苦情が出ているという話があったほど。

なぜ子どもの声が「騒音」として聞こえてしまうのだろうか。それは、普段親しく接する機会のない「異物」だったからだろう。自分と親しくもない子どもの絶叫は、単に不愉快なものとして感じ、そして気になりだすとほんの少しでも聞こえると不愉快になる。で、騒音扱いになったらしい。

でも人間は不思議なもので、親しくなった子どもの声だと、「あ、今日も元気そうだな」とほほえましく思える。親しみがあれば、声は親しみのあるものに変わる。親しみがないから異物感があり、異物感があるから騒音に思えてしまい、迷惑にも思ってしまうのだろう。

保育園を迷惑施設だと運動した人たちは、必ずしも若い人ではなく、そこそこ高齢者だったようだ。子育て経験があったりする人も多かったろうに、それでも「騒音」と呼んでしまったのは、子どもと接する機会が失われ、親しみを感じるチャンスが失われてしまったからかもしれない。

私の子どもたちがお世話になった育児支援室では、近隣の中学生に赤ちゃんを抱いてもらうイベントを開いていた。中学生に抱っこしてもらっても構わない、と理解のある親御さんたちは、中学生たちに赤ちゃんを抱かせた。男の子も女の子も、おっかなびっくりで赤ちゃんを抱いて。

中学生たちは代わりに、赤ちゃんたちに上げるオモチャを自作して持ってきてくれた。その時の人形やオモチャは、いまでも我が家で大切に保管している。このイベントはとても素晴らしいと思う。思春期の重要な時期に、赤ちゃんを抱くという経験をすることは、とても大きなことに違いない。

たとえその時は上手く抱っこできなくて、赤ちゃんを泣かしたとしても、「次に機会があるときは、どうやって抱っこしたらいいだろう?」と考えるようになるだろう。すると、自然に赤ちゃん連れを見かければ観察するようになり、関心がずっと続くきっかけとなるだろう。

私は、少子化が進む大きな原因として、「赤ちゃん・子どもと接する機会がない」というものも、非常に大きいと思う。私の知人は20代後半だが、まだ赤ちゃんを抱いたことがないという。結婚する気にもならないし、子どもを産む気にもならないという。子ども、というものに実感が持てないらしい。

別に、子どもを産まなければいけないわけでもない。ただ、社会全体のことを考えると、少子化があまりに進むのは深刻だし、何より、少子化が進むことで子どもが「異物」として扱われるリスクが高くなり、子どもの生きにくい社会になる恐れがある。これはやはり、緩和することが大切になるように思う。

小学校高学年、あるいは中学生くらいの子に、赤ちゃんを抱っこする機会を設けることは、とても大切なことのように思う。たとえ自らは子どもを産まなくても、赤ちゃんという存在に理解を示し、子育てに必要なものはなにか、ということに思いを致す、重要なきっかけになるように思う。

私が度々紹介する辻由起子さんは、大阪の進学校を出た秀才だったが、「母親になる方法は教えてもらっていなかった」という。赤ちゃんをどうやって抱っこしたらいいのか、ミルクを上げるには、などなど、ごくごく初歩的なことさえ、私たちは習っていない。そもそも抱っこもしたことがない。

それでは不安に思って当然だろう。わからないものには距離を置きたくなるのも当然だろう。私たちは子どもを遠ざけて、それによって子どもの生きづらい社会を作っているのではないか。それよりは、子どもはどこにでもいて、子どもの声がどこでも聞こえる社会の方が健全なのではないか。

そのための一歩として、特に思春期の中学生の頃に、赤ちゃんを抱っこしてもらうという体験は、とても重要だと思う。第二次性徴が始まり、子どもが産める体に変化しているという実感があるときに赤ちゃんに触れることは、生涯にわたる強い体験になるように思う。

そして、子育ては大変な面もあるけれど、母親が心からいつくしんでいる姿を見れば、「子育て楽しそう」となるだろう。そう、子育ては楽しい。むっちゃオモロイ。私は息子や娘でさんざん「実験」して楽しんできた。

我が子は帝王切開で生まれたので、腸内細菌を母親からもらえなかった。腸内細菌が貧しいと、食物アレルギーやアトピーなどのアレルギー症状が出やすくなると言われる。で、私はヨーグルトのホエーを赤ちゃんに与えてみた。すると、その日まで炊き立てご飯のニオイだったウンチは、大人並になった。

息子は生まれたての時、右足はよく動くが左足が動かないことが気になっていた。足の裏に手を当て、いろいろ試してみると、ひざをお腹のように押し当てるように曲げると、非常に弱いながら、反射的に蹴る力が現れることに気がついた。私はその時「お?」と驚いた。で。

左足の膝をおなかのほうに折り曲げて、反射的に蹴る力が出たら「お?」と驚くことを繰り返した。するとまだ新生児だったにもかかわらず、赤ちゃんは「なんか左足が伸びる動作になると『お?』という声が聞こえる」ことに気がついたらしく、赤ちゃんはどうにかして足を意識的に伸ばそうとし始めた。

やがて、1週間もすると右足と同じくらい強力なキックをするようになった。
また、赤ちゃんをバウンサーに座らせると、機嫌がよくなかった。揺らしてもダメ。で、私は一計を案じ、赤ちゃんの両足の裏に私の腕を押しあてた。足を伸ばすとバウンサーが揺れる仕掛け。すると。

赤ちゃんが蹴ると、バウンサーが揺れる。その時、私は「おお!」と驚きの声を上げるようにした。「蹴るとバウンサーが揺れ、『お?』というお父さんの声が聞こえる」という現象に気づいた赤ちゃんは、この現象を再現しようと、意識的に蹴るようになった。そしたら、バウンサーが揺れる揺れる。

私はこのように、仮説を立てては赤ちゃんがどんな反応を示すか「実験」を繰り返すことで、大変楽しませてもらった。息子は2歳にならないうちに字を覚えたけれど、それもまた機会があったら紹介したいと思う。まあ、子どもは実験対象としてオモロイ、オモロイ。

子育ては大変だけれど、ごっつ楽しい。そんな楽しい子育てを知るきっかけとして、中学生くらいの思春期のうちに、赤ちゃんを抱っこする機会を設けることは、とても重要な一歩になるのではないか、と思う。為政者の方々はぜひご検討いただきたい。

そして赤ちゃんのいる親御さんたち。別にイヤなら無理に協力することはない。ただ、我が子が生きやすい社会にするうえで、若い子が赤ちゃんに触れる機会があることは、とても重要な意味があるように思う。協力できる機会がある場合は、ぜひ協力してあげてほしい。

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