リュクールゴスの亡霊

デカルトの「方法序説」とプラトンの「国家」には、奇妙な共通点がある。リュクールゴスが登場すること。リュクールゴスはスパルタをギリシャ最強の国に変えたと伝えられている、伝説的人物。それまでの伝統や慣習をすべて根底から創り変え、国家をゼロからデザインし直したという。

この伝説が、プラトンとデカルトの思考を刺激した。プラトンは、国家をゼロから再構築する構想を提案した。それまでの人々は、国家は所与のものであり、慣習は何も考えずに従うものであり、伝統は文句なく大切にするものだと考えた。しかしプラトンは、リュクールゴスの伝説から大胆な発想をした。

一人の天才が、慣習から伝統からすべてデザインし直したら、理想の国家を創り上げられる、という大胆極まりない発想。しかしこのプラトンの発想は、後にユートピア(理想郷)を自ら創り出そう、という人間たちを生み出すことになった。

デカルトは、プラトンが「国家」で示した構想を、思想の世界で実現しようとしたと言える。当時、キリスト教が万人の思考を支配しており、教会がすべて正しいとされていた。明らかに誤っていることは、ガリレオの裁判を見ても明らかなことが、知識人にははっきりしていたのに。

デカルトは「方法序説」の中で、思想も国家と同じように、一人の天才が根底から思想を創り直した方が矛盾も誤りもない、完璧な思想を構築できるとした。まさに、思想の「国家」版。
デカルトは次の二つの原理を実行するよう、促した。

1 すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ。
2 正しそうな事柄から、思想を再構築せよ。
この二つの原理は非常にシンプルで、全く誤りを含まない思想を確かに再構築できそうだ、ということで、知識人はこぞって思想の再構築を行うようになった。

ところが、これにより、知識人は余計なクセをつけるようになった。疑うこと。合理的精神を持つには、常に疑ってかかることが大切だと信じこむようになった。そして皮肉なことに、「疑う」がゆえに信じて疑わない、という、傲慢な人間を多数輩出する原因にもなった。

レーニンやポル・ポトはその典型。自分ほど疑い尽くし、考え尽くした人間はいない、その人間がたどり着いた思想に間違いはあるはずがない、ならば、その思想を受け入れない人間は間違ってるのだから、殺しても構わない。実際、彼らは逆らう人間を虐殺した。

なぜ疑り深いはずの人間が、自分の思想を正しいと信じ込んでしまうのだろう?
慣れ親しんだ考え方も何もかも疑い、否定し続けることはとてもつらい。「もうこれだけ疑い、考えたんだから、そろそろこれは信じても構わないよね?」という欲求が無意識のうちに湧くのかもしれない。

ジョブズ氏は、いつも似たようなシャツを着ていた。これは精神エネルギーの節約をしていたのではないか、と言われている。仕事にイノベーティブであろうとする人間は、精神エネルギーをすべてそこに注ぎたい。服はどれにしよう?と悩んでいると、その分、精神が疲れてしまう。

「選択の科学」では興味深い実験が行われている。何十種類ものジャムを取り揃えた売り子と、数種類に厳選した売り子と。どちらが売り上げたか?選択肢の多い方が消費者には自由度があり、より消費者にはありがたいように思える。ところがジャムを多く売り上げたのは、数種類に厳選した方だった。

確かにジャムの品揃えが多い方が、買う側にとっては自由が確保されているが、どれがよいか選ぶのに精神エネルギーを消費しなければならない。あっちがよいだろうか、こっちがよいだろうか、と迷ってるうちに心が疲れ、「また今度でいいや」と、選ぶ行為自体を諦めてしまう。

数種類に厳選してあると、「売り子も、そうムチャな選び方はしてないだろう、むしろ、まずそうなジャムはあらかじめはじいてくれているだろう」という信頼のもと、わずか数種類から選べばよいので、精神エネルギーの節約になる。だから購買行動にまでつながりやすいのだろう、と分析している。

「疑う」も、非常に精神エネルギーを浪費する。いちいち疑わなくてもよさそうなものも、改めて何度も疑うというのでは、いつまでも落ち着かず、精神エネルギーを消費し続けることになる。それではたまらないので、「もうこの辺で、これは信じてもいいよね?」となるのだろう。

疑い尽くしたと自認する人間は、そのために、かえって信じ込んでしまうのだろう。自分と異なる考え方をする人間に対しては、「自分ほど疑えない愚かな人間」とレッテルを貼り、見下すようになってしまう。傲慢な人間を生んでしまう。

精神エネルギーの節約のために、すべての理論や法則は「仮説」と捉えることをお勧めしたい。「仮説」に過ぎないのだから、いつでも問題があればすげ替える。しかし特に問題がないならとりあえず肯定的に受けとめる、というもの。こうすると、精神エネルギーの節約になる。

精神エネルギーの節約ができれば、本当に大切なことを検証するのにエネルギーを集中的に注げる。
将棋の渡辺名人は、将棋のこと以外は無頓着で、かわいい絵柄のTシャツを平気で着たりして、家族から止められているという。服選びに精神エネルギーを使わないことにしているのだろう。

精神エネルギーには限りがある。何でもかんでも始終疑うのでは疲れてしまう。必要な時に、適切に検証できるようにするためには、
・すべては仮説と捉え、そのかわり、むやみに否定しないこと。
・全部疑うのではなく、前提を問うこと。
で、かなり精度良く、物事を検証できるように思う。

「疑う」は副作用きつすぎ。

「自分ほどすべてを疑い、検証し、確かな思想を再構築した人間はいない」と慢心する場合、その人は「リュクールゴスの亡霊」に囚われている。私たちは、それほどきちんと疑えないし、結構好みで思想を再構築してしまう。完璧は人間にはなれない、という自覚が大切なように思う。

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