相手を依存症にするイネイブラー、相手を能動的にするイネイブラー
「イネイブラー」という言葉があるらしい。たとえばアルコール依存症の人に「よかれと思って」お金を稼いだりかいがいしく世話を焼くことで、アルコール依存を続けることができるようにしてしまう人のこと。
「できる人(enabler)」、つまり、依存し続けることができてしまうように世話をする人。
なんでこんなことをしてしまうかというと、「私が頑張りさえすればあの人も変わるかも」とか、「私が見捨てたらこの人は終わってしまう」とかいうリクツにしがみついて、自分自身の貢献感を満たすためだと言われている。つまり、実はその人も、貢献感を求める依存症。実は「共依存」なのだという。
こうした場面、ものすごく多いように思う。
私のところに「魂飛ばし」の高校生が来た。「この課題やっとけよ」というと「わかりました!」と返事はいいのだけど、30秒もしないうちに目はうつろ、心の中のお花畑に魂が飛んでしまうという子だった。
高校生にもなって、なんでこんなに心ここにあらずになってしまったのか?生育歴を改めてご両親に尋ねたところ、ひどく「おばあちゃん子」で、かなり大きくなるまで食事も着替えも自分でさせてもらえず、おばあちゃんが全部やってあげていたという。食事もおばあちゃんがスプーンで口元まで運んで。
つまり、その子は自分から能動的に働きかけて何かするという「能動性」を奪われていた。おばあちゃんはイネイブラーになることで、孫を無能力者にしてしまっていた。「よかれと思って」。おばあちゃんは「能動性の強奪者」となることで、孫にとってかけがえのない存在になろうとしていたのだろう。
でもこの事例、「イネイブラー」という呼び名はふさわしくないように思う。その高校生は、勉強はおろか、ありとあらゆる生活能力を奪われ、無能力者にされてしまっていたのだから。また、この高校生はおばあちゃんに依存することを望んでいたとは必ずしもいえないのだから。
そういう意味では、イネイブラーというよりも「能動性の強奪者」と呼んだ方がいいかもしれない。まあ、ここでは難しい言葉を使いたくないので「よかれと思って」人って呼んでおこうと思う。こういう人は大概「よかれと思って」やってることがほとんどだと思われるからだ。
この「よかれと思って」は、日常の非常に些細なところでも顔を出す。「宿題はやったの?」「 試験前なのに勉強しなくて大丈夫?」と、子どもが自ら能動的に動き出す前に先回りして声をかけてしまう。このために子どもはいつまでたっても能動的に動こうとすることができなくなってしまう。
こう指摘すると、「ほっといたらいつまでたっても宿題しようとしない」「強制されなければ自分から勉強し始めるはずがない」と反論をもらうことがほとんど。確かにそれは事実かもしれない。ではなぜ子どもたちは自ら能動的に宿題や勉強をしないのだろう?単純。楽しくないから。
楽しくないことをするのは大人でもつらい。やりたくない。大人でもそうなのに、楽しいことをやりたくて仕方がない子どもなら、余計に気が進まない。だから宿題や勉強に自ら能動的に取り組むということが起きにくいのだろう。
でも一つ疑問が浮かぶ。なぜ宿題や勉強は楽しくないのだろう?
恐らく、強制されるからだろう。人間、強制されるとイヤになる。「これはお前の仕事だろ。徹夜してでも仕上げろ」なんて言われたらやる気なくすだろう。自分で企画した仕事なら「三徹しちゃったよ〜」と言いながらも楽しく働けるだろうに。能動的に取り組んだことは楽しいが、強制されると楽しくない。
親はついつい、子どもが学校に通い始めると、宿題はきちんとやっているか、勉強しているか気になって、ついつい「宿題は?」「勉強は?」と口にしてしまう。そのために、事実上の強制となり、子どもは宿題や勉強が楽しいどころか、イヤなものになってしまうのだと思う。
私は、宿題も勉強も「楽しい」ものにしてしまえばいいのに、と思う。
たとえば宿題はやらなくていいもの、としてしまう。「教壇にプリント置いとくので、ほしい人はどうぞ。明日提出したら、先生見るからね」と。すると中には、持って帰ってやってくる子がいるかもしれない。
その時、「え?本当にやってきたの?やれなんて誰も言わないのに?」と先生が驚いてみせたら、きっとその子どもはすごく誇らしく感じるだろう。先生を驚かすことができると気がついた他の子らも、今日はプリント持って帰って、明日先生を驚かしてやろう、と企むのではないか。
勉強も同様だと思う。たまたま子どもが自発的に、能動的に(少しでも)取り組んた時に(ほめるのではなく)「え?誰も何も言わないのに、自分から始めたんか!」と驚いたら、子どもは勉強するのが誇らしく、そして楽しくなるように思う。
「驚かすことができる」って、楽しくないことも楽しいものに変えてしまう力が結構あるらしい。もちろん、まずは嫌悪感をなくしてからでないと無理があるけど、嫌悪感の原因になる強制や先回り、注意などがなくなり、嫌悪感が薄れたあたりで驚かすことができると、かなり誇らしく、楽しくなるらしい。
楽しくなると、子どもも大人も取り組むことに前向きになる。能動的になる。その様子にさらに大人が驚くと、子どもはますます驚かしてやろうと意欲が増す。楽しい!は、自発的能動的に取り組むエネルギー源になるように思う。そして楽しい!は、「驚かす」という楽しみが着火剤になるように思う。
では、なぜ親は「驚く」ことができないのだろう?たぶん、先回りするから。「宿題したの?」「勉強しなくていいの?」と先回りしてしまうと、子どもが宿題したり勉強したりしても、「自分が言い聞かせたから始めたのだ」と自分の手柄にしたくなる。そして「宿題も勉強も当然」と考え、驚けない。
つまり、先回りして「宿題したの?」「勉強は?」と先回りするからこそ驚けなくなり、子どもが楽しく宿題や勉強に取り組むチャンスを自ら潰してしまっているように思う。
でも、先回りの逆に「後回り」したら?子どもが動き出すまで言わず、たまたま子どもが動き出すまで、祈るように待っていたら?
「動き出した!」とすごく嬉しくなるだろう。子どもの中に能動性が発生した「奇跡」に驚かずにはいられないだろう。その驚きが、子どもには何よりのご馳走になるように思う。
この接し方、親は赤ちゃんに対して自然にとれている。赤ちゃんは言葉が通じないから教えようがない。先回りしようがない。
親は、どうか立てますように、言葉を話せますようにと祈るしかない。子どもが自ら能動的に動き出すのを待つしかない。
そんなふうに待ち、祈っていると、ある日赤ちゃんが立ったり言葉を話したりする。そのとき、親は手放しで驚かずにいられない。その時の驚きようを、子どもはどこかで覚えている。
だから幼児の口ぐせは「ねえ、見て見て」なのだろう。昨日までできなかったことを「できる」に、知らなかったことを「知る」に変えたとき、自分が成長したとき、親に伝えて驚いてもらおうと企むから「ねえ、見て見て」とせがむのだろう。ならば、この関係性をずっと続ければよいのだと思う。
私は今でも、子どもたちに「お父さんの子どもやのに、なんで君たちはそんなにマジメに取り組むのかねえ。誰に似たんや」と、ほとほと感心してみせる。驚いてみせる。すると子どもたちは「この程度のこと、なんでもないよ」という顔をして取り組む。どこか誇らしげに。親を驚かせるのが楽しいらしい。
どうやら「よかれと思って」やることは、大概有害であるらしい。「よかれと思って」は子どもより先回りする。先回りするから驚けない。親が驚かないから楽しくない。楽しくないどころか、先回りされ、強制されるからイヤなことに変わる。この結果、子どもは能動性を失い、無能力者にされるのだろう。
「よかれと思って」は、やはり能動性の強奪なのだろう。「よかれと思って」人(イネイブラー)は、相手のためを思ってやってるつもりだけど、むしろ相手のためにならないことを一所懸命になってやっているのかもしれない。
他方、子どもの力だけではどうしようもない部分だけ手助けし、あとは子ども自身が能動的に動き出すのを待つ、任せる、委ねる場合はどうだろう。親は子どもが自ら能動的に動き出した「奇跡」に驚かずにはいられないし、子どもは失敗するかもしれないけど、何も言われず、手出しもされないから
好きなように試行錯誤ができる。やがてどうすれば克服できるのか、道を探り当てたとき、子どもは誇らしげにこちらの顔を見るだろう。「ねえ!見て見て!とうとうできたよ!」と。親は、子どもが自らの力でたどり着いた境地に驚かずにはいられないだろう。その驚く様子が、子どもの意欲をかき立てる。
その好循環が始まれば、親は、子どもがどうしても自分だけではどうしようもない部分だけ手助けするだけで済むようになるだろう。子ども自身の力でどうにかなる部分はそのまま任せ、委ねれば、子どもは試行錯誤する楽しみを味わいながら取り組み、ついに成し遂げれば強い達成感を味わうだろう。
①子どもの力ではできない部分だけ手助けする。
②他の部分は子どもに任せ、委ねる。先回りせず、待つ。どうか自らの力で切り開きますように、と祈る。
③子どもが能動的に動いたことに驚く。
このサイクルを繰り返せば、子どもはどんどん能動的になるように思う。楽しいから。
ビジネスの世界で「イネイブラー」は、依存症の世界の意味とは逆になるらしい。仕事のできない人をできる人に変える人のことをイネイブラーというのだそうだ。私が思うに、ビジネス的イネイブラーは「任せ、委ね、祈り、そして驚く」人なのではないか、と思う。
依存症的イネイブラーは、先回りし、相手から能動性を強奪し、結果的に無能力者にしてしまう人のこと。
ビジネス的イネイブラーは、後回りし、部下に任せ、委ね、待ち、祈り、そして部下の中に能動性が発生したことに驚く人のこと。そんなに気がする。