子育ては文化人類学者のように
子どもの工夫や発見に驚くことをオススメしたら、「驚くはずがない、それは芝居に違いない、芝居は子どもに見抜かれ、むしろ悪影響だ」という意見が複数。私からしたらなんで驚けないのかが不思議。その点について考えてみたい。
息子が赤ちゃんの頃、ヒモを引っ張るのが好きだった。そのためか、蛇口から出る水の糸をつかもうとした。ところがつかめない。確かにつかんだはずなのに?と、手のひらの中を見つめたり。何度も何度も挑戦した。こうしたらつかめるんじゃないか、と、赤ちゃんなりにいろいろ工夫してるのがわかった。
私は赤ちゃんの身になって考えずにはいられなかった。確かにヒモのようなのに、なぜ水の糸は握れないのか?なんで握った途端に手の甲を流れ落ちるのか?赤ちゃんからしたらすごく不思議なことに違いない。一週間くらいはずっと水の糸をなんとかしてつかもうと試みていた。
息子が大きくなり、ある程度大きく言葉を操れるようになってから、なぜ水の糸は握れないのか、聞いてみた。すると「水は柔らかすぎるから、握ると壊れてしまう」と答えた。私は、幼いなりに自分の言葉でメカニズムを理解し、それを言葉にすることができたことに驚いた。
私のスタイルはいわば、文化人類学を切り開いたレヴィ・ストロースのようなもの。それまで、非西洋の人間を未開人とバカにしていたそれまでの西洋人と違い、決して西洋文明の規準から断罪しようとせず、その民族のもとに足を運び、そこに身を投じながら、そこの文化そのものを理解しようとした。
ストロースは西洋人の色眼鏡で見ようとしなかった。なぜ彼らがそう考え、そのように行動するのかを理解しようとした。その結果、彼らには深い哲学と思考があり、豊かな文化があることを発見した。その視点から眺めると、西洋文明はむしろ色あせるほどに。
子どもの様子に驚かないのは、原住民を理解しようともせずに「未開人」とみなし、軽んじるストロース以前の西洋人と似ているのではないか。西洋文明が一番に決まっている、その他は遅れていて価値はない、という「信念」を持ってしまっていて、もはやその色眼鏡を通してしか物が見えなくなっているように。
私はもちろん、水の糸は水分子で構成され、水には表面張力というものがあり、水分子同士が水素結合などでくっつく性質があり・・・などといった知識は持っている。しかしそうした知識を一切持たずに水の糸と出会ったときの赤ちゃんの気持ちはわからない。
だから、そうした知識のない赤ちゃんの気持ちを推し量る。どんな気持ちで水の糸を握ろうとしているのだろう?その先で、風呂桶のお湯と一体になることをどう捉えているのだろうか?握りつぶした水の糸が、手の甲に流れる早わざをどう感じるのだろう?
そうしたことを考えると、赤ちゃんの眼を通す形で、この世は不思議に満ち満ちていると思わずにいられない。大人にとって当たり前の現象が、赤ちゃんにとっては摩訶不思議。なぜ普段引っ張ってるヒモと同じにならないのか!こんな不思議なことはない!
驚くことができないのは、子どもの身になって考えることができないからだと思う。知識と経験にあふれた自分の知力を誇る気持ちを捨てることができないからではないか。西洋人が、ほかの民族の人々を未開人に決まってると決めつけ、ろくに観察せず、そして驚かなかったように。
ストロースはその民族の中に分け入り、彼らと一緒に過ごし、彼らと一体化しようとすることで、彼らの思考様式を察することができた。西洋文明で断罪しなかったから、それぞれの民族の豊かな分化に気づき、驚き、感銘を受けたのだろう。
自分を賢い、頭がよいと考えている人は驚くことができなくなるようだ。驚くよりも、自分がいかに万人に対して優れた知性を持っているかを誇ることのほうが重要になってしまうからだろう。子どもの様子を観察することよりも、自分の知力を誇りたくなる。これは確かに本能的なものかもしれない。
けれど、眼の前の子どもになりきり、その子の目で世界を見ている気分になったとしたら、その本能は発動しないように思う。それよりも、世界が彩られ、不思議でいっぱいなことに改めて驚かされることになるだろう。
まだ知識も経験もろくにない子どもが、未知に満ち満ちているこの世界をどう攻略するか。それは、初めてプレイするゲームのようにワクワクするものではないか。自分も子どもと同じ知識と経験がなかったとしたら?を考えると、その困難さと面白さがわかる。
文化人類学者になったつもりで、子どもになりきり、子どもの知力、経験でものを考える。すると、子どもが手持ちの武器だけで果敢に未知に挑んでいくその勇気と工夫に驚かされずにいないはず。それができれば、驚くことは、とても簡単なことのように思う。