「万に一つ」を「万起きる」に変える

実験科学のだいご味は、「万に一つくらいしか起きない」とされていた現象を、「万起きる」に変えることなのかもしれない。
「守株」ということわざがある。昔、ウサギが大慌てで走っていたら木の切り株にぶつかって死んだ。これに味をしめた農夫は、仕事せずに切り株を見守るようになった、と言う話。

ふつう、この守株の物語は、万に一つもないような出来事が起きるのを期待して、仕事までやめてしまうことの愚かさを笑う話になっている。確かにただ同じ事件事故が起きるのを待つだけでは、愚かということになるだろう。そこで実験科学は、万に一つを万起きるに変えるにはどうしたらよいか?を考える。

なぜウサギは切り株にぶつかったのだろうか?茂みに隠れていて見えなかったからだろうか。では茂みで切り株が見えないようにした方がよいのかもしれない。
なぜ万に一つも起きないのだろう?切り株以外の場所も走れるからではないか?では、切り株めがけて走るしかないようにしてはどうか?

切り株にぶつかったからって必ずしも死ぬわけではない。それは切り株の形が関係しているのでは?だとしたら、まったく別のワナを仕掛けてもよいのでは。
こうして物事をよく観察し、より改良するにはどんな工夫をこらしたらよいかを考え抜く。すると万に一つもないのが一となり、十、百となっていく。

私が開発した、水耕栽培で有機肥料が使える技術(プロバイオポニックス)は、かつて「万に一つも起きない」技術だった。水に生ごみなどの有機肥料を加えると水が腐ってしまう。腐った水では根が傷み、植物は育たない。このため、幾多の研究者が取り組んでもうまくいかない不可能とされる技術だった。

私は、「万に一つも起きない」この技術を、何とか「万起きる」に変えたいと考えた。よく観察すると、土の栽培では問題なく有機肥料が使える。なのに水の中に有機肥料を入れると水が腐る。土がなければなぜ腐るのだろう?そもそも腐るってなんだろう?次にそれらを調べてみた。すると。

土の中では、2段階の分解(アンモニア化成、硝酸化成)が進むのに、水の中だと1段階目で分解が止まるということが分かった。ならば2段階目まで分解が進むようにすればいい。ところが困ったことに、2段階目を進める微生物(硝化菌)は、有機物が大嫌いで、これを与えると死んでしまう。

そうか、有機肥料を入れると硝化菌が死んでしまうから、水は腐ってしまうのか。じゃあ、有機肥料を与えても硝化菌が死なないようにするにはどうしたらいいか?という問いが出てきたので、「毒でも少しずつ与えたらそのうち慣れるんじゃ?」と考えた。これがドンピシャ。

硝化菌が水の中という環境に慣れるまでは、有機肥料をちょっとずつ与える。すると、他の微生物が増えて、硝化菌を保護するようにもなり、有機肥料が大量に入ってきても硝化菌は死ななくなった。これで水の中でも2段階の分解(アンモニア化成、硝酸化成)が進み、水耕栽培で有機肥料が使えるように。

万に一つも起きなかった、水耕栽培で有機肥料を使える技術(プロバイオポニックス)は、「万起きる」技術に変わった。2022年にこの技術はプロバイオポニックスと呼ばれるようになり、飯舘村の生産者が最初のJAS認定農家になった。

「万に一つも起きない」を「万起きる」に変える、この実験科学の精神を、子育てや教育の世界で適用できないか、と私は考えている。「ビリギャル」はその典型例だと思うけど、指導者と環境がピタッとハマると、もはや学力向上は望めないと思われていた子どもが、劇的に成長することがある。

実のところ、こうした現象は「万に一つもない」ほど確率は悪くない。百に一つくらいは見る現象。自分の身近にもそういう人がいる、と、結構転がっている話ではある。しかしこれがなかなか2になり、5になり、10になり、百になるということができない。それはなぜなのか?

私自身がビリギャル的な体験の持ち主。私は大阪市でも成績のかなりよろしくないと言われていた公立中学校で、歴史上もっとも荒れていたと言われた学年で、成績は真ん中あたりをウロウロ。親戚の中でも私が一番成績悪かった。「行ける高校あれへんで」と散々脅された。

それでも2つほど、学習意欲が劇的に高まる「事件」が起きたことで、2年遅れとはいえ、京都大学に入学できるまでに学力が上がった。私は、同級生と比べても記憶力に乏しく、また、物わかりが極端に悪くて理解力もなかった。それでもそこまで学力が上がったのは、ひとえに「意欲」が湧いたからだろう。

ただし「意欲か、では本人が頑張りさえすればいいんだね」という話にはならない。私自身はもともと、学習に対して全く意欲がなかった。試験1週間前に部活がなくなるのをいいことに、親戚とソフトボールで遊んでるくらい、まったく試験勉強なんかする気がなかった。自分では意欲の高めようがなかった。

私が意欲を高めるきっかけになった2つの出来事は、完全に外部要因だった。1つは、家族が困窮して1000円のお金がないときに、賃貸マンションの大ガラスを割ってしまった事件。弁償に8万円かかるという。お袋さんは「どうしたらいいの?」と泣き崩れた。私は部屋の隅っこでうずくまっていた。

すると、そのなけなしのお金で父が喫茶店に連れ出した。その時、父が語った言葉。「中学生のお前では8万円もの大金を弁償できない。お父さんは次の就職のために勉強をしているので、結局お母さんが弁償するしかない。お母さんに苦労を掛けることになる。そこでこれから、お前に5つのことを伝える」

「一つ目。お母さんの負担を軽くするため、これから炊事、洗濯、掃除などの家事はすべてお前がやりなさい。もうお前は中学生で、お母さんよりも体力がある。お前ができることで、お母さんを支えてやりなさい。」

「二つ目。家事をするからって部活をやめてはいけない。お前の年頃は体を鍛えることも重要」

「三つ目。お前は友達と遊ばない。友達から誘われたら、積極的に遊びにいきなさい。友達は、生涯大切なものだよ。」

「四つ目。きちんと休みなさい。休むと言っても、マンガを読んでだらだら過ごすことではない。休むと言ったら休むこと。気力と体力を回復するため、意識的に休むことも大切。」

「そして最後に五つ目。お前はちっとも勉強しない。これからはお父さんと机を並べて勉強しなさい。少しでも成績が上がってごらん、お母さん、何よりも喜ぶよ」
私が毎日机に向かうようになったのは、それがきっかけ。それまで全く勉強していなかったのがするようになったので、成績が徐々に上がった。

成績が少し上向いてきたときに、次の事件が起きた。なぜか私に親しくしてくれる数少ない友人がいた。その友人は学年でトップクラスの成績。地域一番の進学校に進むのは確実視されていた。本人も「東大に行きたい」と言っていた。私は当時、はなから大学は諦めていたのだけど。

ある日、友人が真っ青な、暗い顔をして私のところに来た。「俺、進学校に行けないことになった。中学卒業したら工業高校に進んで、すぐ就職しろって」。友人の家は貧しく、とても大学に進学させるお金がないので、高校を出たらすぐ働いてほしい、と告げられたという。そこで、私の運命が変わる言葉が。

「俺の分まで勉強してくれ」

私は、少し上向いてきたとはいえ友人とは比べ物にならない成績。けれど、友人の悔しさがひしひしと伝わった。この言葉から逃げてはいけない、そう思った。そこから私の学習意欲に火がついた。友人の無念を、私が晴らさねば、と。

友人は東大に行くと言っていたから、それと同じくらい難しいと言われる京大くらい目指さなきゃいけないか、と思い、高校合格とともに「京大に行く」と宣言したら、母が「高校もギリギリ合格したところなのに」と大笑い。地域の2番高にギリギリだったのは確かで、笑われても仕方なかったのだけど。

まあ、案の定、菲才の悲しさで、高校出て2年遅れで京大にようやく合格。おそらくストレートで東大に合格できたであろう友人と比べると、見劣りするのはやむを得ない。
私はそういう体験もあり、「人間の能力は生まれつき決まっている」という説が大嫌い。解像度悪すぎる。様々な事情があるのだから。

さて、私が学習意欲を取り戻すきっかけとなった2つの事件は、ある種の奇跡。これと同じ体験をしようとすることは極めて困難。実際、二人いる弟は「自分には兄貴に起きたようなきっかけがなかった」と漏らすほど。つまり、私に起きたことは偶然の要素も大きい。

これでは、私のようなケースは万に一つとは言わないまでも、千に一つくらいの稀なケースになってしまう。実験科学で言う「外れ値」のようなもの。でも、実験科学は、この外れ値を偶然にとどめず、必然に変えることにこそ醍醐味がある。

私のケースは、まさに「守株」のようなもの。切り株にウサギが頭をぶつけて死ぬ確率くらい、滅多に起きないこと。滅多に起きない偶然に期待するようでは、技術とは言えない。では、偶然を必然に変えるにはどうしたらよいのか?私という偶然のケースを必然に変えるにはどこを工夫すればよいのか?

私は、結局のところ、意欲だと考えている。学ぶ意欲を取り戻すこと。意欲さえあれば、子どもたちは勝手に学ぶ。自発的能動的に学べば、自然と学力はつく。できなかったところもできるようになる。では、どうしたら学ぶ意欲を取り戻せるのか?

楽しむことだと思う。楽しくないことに意欲を持て、というのは、人間心理的に無理な話。楽しいことは、やめろと言われても止まらなくなる。「もうちょっと」と言いながらずっと続けたくなる。いかに楽しむか、楽しめるかが大切。
ではどうしたら楽しめるようになるのか?

周囲が「あ、それはこうしたらできるよ」とか、「勉強しなさい」とか、先回りしないこと。命じられて、先んじられて、受動的に仕方なしにやる、という形に持ち込まないこと。本人が能動的に最初に動き出す形を大切にすること。
では、どうしたら能動的な形に持っていけるのか?

本人が能動的に動くまで待つこと。そしてその能動性は何も勉強に限らなくて構わない。ささやかなことで構わない。本人が何かしら、自分から動いたことが起きたとき、その能動性に驚くこと。すると、子どもはそこから少しずつ能動的に動くのが楽しくなってくる。驚かすことが楽しくて。

その上で、学習スタイルを「できない」と「できる」の境界線にまで立ち戻ること。小学校の内容がアヤフヤなのに中学校の内容ばかりやっても身につかない。特に算数は典型的。アヤフヤな部分をつきとめ、そこから学び直す。すると、確実に「わかった」に変わる快感を味わえて楽しくなる。

しかし小学校の内容まで立ち戻るのを恥ずかしがって取り組もうとしないことも多い。その場合、大人でも小学校の内容がアヤフヤな場合が多いこと、自分も小学校からやり直したんだよ、と伝え、それはちっとも恥ずかしいことではない、と言ってくれる大人が一人、そばにいることが大切。

そして、「できない」を「できる」に変えられたら「やったね!」とハイタッチし、その健闘をたたえる大人が一人、そばにいること。すると子どもは、「できない」を「できる」に変える作業が楽しくなる。楽しいから意欲的に取り組む。

その際、大切なことは、教えることをなるべく減らすこと。本人だけではどうしても気づかないだろうな、ということだけ教えて、あとは本人の中にある材料で工夫し、なんとか克服してほしいと「祈る」。そして見事克服したら「やったあ!」と驚いてハイタッチ。

すると、子どもは自分の力で克服した、という達成感を味わえる。自分の力で達成したことに驚き、喜んでくれる大人もいる。するとますます「できる」を増やして驚かせてやろう、と企む。それが学ぶ意欲と楽しむ心を生み出してくれる。

①能動的に取り組む意欲を何より重視すること。
②意欲を高めるために、楽しめるようにすること。
③子どもを受動的にしてしまうような働きかけをしないこと。
④能動的に動くのを待ち、能動的に動いたことには、なんならなんでも驚くこと。
⑤「できない」と「できる」の境界線まで立ち戻ること。
⑥できないことを恥ずかしがらず、そこまで戻って学び直すことは当然だと考える大人が一人そばにいること。
⑦「できない」を「できる」に変えた瞬間、驚き、ハイタッチする大人がそばにいること。
⑧教えることを極力減らし、本人の手持ちの材料で克服することを祈り、もし克服したら驚き、喜ぶこと。

以上に注意して子どもが意欲的に楽しめる環境を整えると、子どもは自然と「できない」を「できる」に変えていくことを楽しみ、能動的に成長し始めるように思う。この仮説に至ってから、いろんな指導で苦労しなくなった。子どもだけでなく大人も、できなかったことができるようになっていく。

「万に一つも起きない」と思われていたことが、「万起きる」とまでは言わないまでも、かなり高い確率で成長するように思う。自分で心を固く閉ざしてしまっている事例を除けば、ほぼ確実に成長していくように思う。意識して実施してからn=40くらいになっており、上手くいかなかったのは2例のみ。

ただ、指導者としての数は私一人だからn=1の話、ということになってしまうかもしれない。ただ、同様のことを実践されている指導者の皆さんを見ると、実によく似たことをしておられる。その観察結果から言えば、n数はすでにかなりに上るように思う。

一つには、コーチングが大きな変化をもたらしたと言えるだろう。それまでは「教える」が唯一の指導法と思われていたのが、コーチングにより、指導される側の能動性を引き出すことが重要視されるようになった。この時から、子どもの意欲をうまく引き出す指導者が増えたように思う。

まだまだ、子どもの能動性を引き出す指導法が十分に普及しているとは言えない。そのために、子どもの能力は生まれつき決まっている、と決めつけてしまう人が後を絶たないのだろう。でも、能力をうまく引き出す技術は存在し得る、と私は考えている。その形も見えてきたように思う。

私は、多くの優れた指導者のその方法を、みなさんに伝達できたらと思う。「万に一つ」を、「十中八九」まで技術を高めることができたら、子どもたちの能力は大きく底上げされることになると思う。そうした未来を呼び込めるよう、言葉を紡いでいきたい。

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