デカルト的「疑う」の3つの弊害

「疑う」という懐疑主義は、研究者に必要な要素では?というご意見を頂いた。やり取りをする中で「疑う」の弊害が3つほど浮き彫りになってきたので、ここでまとめておこうと思う。

まず1つ目。
「①相手を怒らせても無反省」

研究者は真実を求めて動く生き物なので、どんなに偉い人の言説でも疑ってかかることは大切だ、と主張する人は、研究者でも少なくない。しかし当然ながら、疑ってかかるという姿勢は相手に不愉快な思いをさせる。「え?そこから疑うの?」と辟易させる面もある。また、疑う姿勢は冷笑的に見える面も。

だから、疑ってかかる姿勢は失礼にあたるし、相手が怒るのも自然な反応であると私は考える。しかし「疑う」の効能を「信じて疑わない」人は、「研究者たるもの、疑われて怒るのは未熟」と信じて疑わないために、自分の言動に無反省なことが多くなる。工夫がなくなる。もっとやりようがあるのに。

私は「前提を問う」で十分置き換え可能だと思う。相手の論をそのまま正しいと一旦は受けとめ、ただ不勉強だから教えてほしい、という姿勢で、「ここの部分の前提となる根拠は何か、教えて頂けますか」と、指差し確認のように訊ねていけばよいのだと思う。前提となる根拠がしっかりしていれば。

この指差し確認的な問いは、相手の論がどれだけしっかりしたものかをみんなに証明するようなものとなる。だから相手に不愉快な思いをさせずに済む。もし論拠薄弱なら、「あ、それはもう一度しっかり確認します」と、相手に反省を促すこともできる。相手の論をまずは正しいと受けとめるからこそ。

相手の素直な反省を促すことも可能なのだろう。しかし「疑ってかかる」は、やはり戦闘的否定的印象を与え、それを受けとめる側は防衛的な心理になりやすい。なのにそれを「研究者たるもの、堂々と受けとめるべきだ」と、肩を上げて首を振りながらため息し、ニヤリと笑う感じを出すと、実に感じが悪い。

研究者であろうと人間。言語の外にある非言語コミュニケーションが不愉快なものになりやすい「疑う」が、いかに相手に不愉快な印象を与えるかには、十分反省する必要がある。他の方法で十分な検証を可能にできないか、と工夫を重ねる必要があるのに、「怒る相手が研究者として未熟」と相手のせいにする。

自分の失礼さに無反省で、自分の言動を正しいと捉えて信じて疑わない弊害が、「疑う」にはある。これが「疑う」の弊害の一つ。

2つ目の弊害は
「②疑い続けることは精神的につらすぎる」。

よくある話に、「あれ?ガスの元栓閉めたっけ?」と不安になり、家に戻って再確認せずにいられなくなることがある。あるいは「窓を閉めたっけ?」と不安になり、何度も家に戻らざるを得ないことも。「疑う」はこれに似て、安心をいつまでも得られにくい、不安な精神状態を生む。

手が汚れている気がして1時間も2時間も手を洗い続ける神経症が知られている。「まだ汚れているのではないか?」という疑念が気になって気になって、何度も何時間も手を洗わずにいられなくなる。「疑う」は、こうした神経症状を招きやすい。他のことがおろそかになっても気を回す余裕が失われる。

私はこれも「前提を問う」という、いわば「指差し確認」で十分だと考えている。「ガスの元栓、ヨシ!窓の鍵、ヨシ!」と指差し確認し、一連の確認が終わったらいちいち疑わない。そうすることで精神的負担を軽くする。物事の軽重を比べる心の余裕を確保する。「疑う」は、疑い出すとキリがないから。

「疑う」の弊害の3つ目は、
「③信じて疑わない状態になる」という、一見言語矛盾な状態になること。
①でも述べたように、「疑う」の効能を信じて疑わない、それ以上の工夫がなくなる状態になりやすい。

そして「自分は『疑う』は平気なのに、他の人たちの『疑う』の中途半端なことよ」と、人を見下し、自分を優位におく心理になりやすい。

「疑う」という心理的にきつい作業を実行できる自分はより優れた人間であり、それを実践できない人間を見下げても構わない、と信じて疑わない傲慢さが、「疑う」からは生まれやすい。「疑う」は「信じて疑わない」高慢さを生みやすい。

私は、何を前提としているのか、その根拠を問いさえすれば検証できるのだから、そんな傲慢な姿勢を示す必要はないように思う。工夫が足りないのに、工夫の足りなさに無反省に陥りやすいのが「疑う」の弊害。「疑う」は、疑うことの効能を信じて疑わない厄介な無反省を生む点で、罪が深いように思う。

デカルト的「疑う」(懐疑主義)は、そろそろ見直した方がよいように思う。それよりはソクラテスの「産婆術」に先祖返りしたほうがよいように思う。ソクラテスは「前提を問う」ことにより、無から知を生むという大発明をしている。

ソクラテスは無知な若者とのやり取りを楽しみ、「ほう、それはどういうことかね?」と「前提を問う」ことで若者の思考を促し、新たな発想や深堀りを可能にした。この思考法が、プラトンやアリストテレスといった傑出した弟子を生み出すことにつながったのだろう。

「疑う」は相手に防衛的な姿勢を促し、知の発展はむしろ停滞する傾向がある。しかし産婆術としての「前提を問う」は、プラトン「メノン」で描かれているように、数学の素養のない者同士で「前提を問う」うちに、新たな図形の定理を発見できたりする。無から有を生む楽しみがある。

デカルト的「疑う」は、上記のように3つの弊害があるように思う。もう、「前提を問う」に置き換え可能なことに気づいてもよいのではないか、などと私は思うのだが、いかがだろうか。

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